安達が原
安 達 が 原
<1章=【安達が原】>
行くべき行方は 知らねども
乾いた落ち葉が疲れた足を縺れさせる。前屈みになって居なければそのまま後ろへ素っ転びそうだ。倒れるわけにはいかないのに。息が上がる。口で呼吸しすぎて喉が張り付き痛い。藪とまでは行かぬ、けもの道。陽は入るが真上にあった太陽も半刻もすれば赤く燃えるだろう。ずっと屈んでいるから腰が痛む。膝は笑うし腕も痺れている。よろめくことも出来ないのにそれでも足は前に進む。
何かを畏れるように。
どっかで見た景色じゃ、そう坂本は思った。強烈な既視感は現状を嘲笑う様に背に圧し掛かる。なんで、こがあなところで人間担いで歩いちゅうんろうか。行商人になった覚えはないがやけど、荒く息を吐きながら足を前に出す。バランスを崩さぬように踏ん張りながら悪態を吐く。行商だって立派な商いやけどのう、喋ると苦しいと解っているのに聞き手の曖昧な独り言を吐いた。
貿易商、とは行かぬまでも実家の家業手伝いを一年。仕入に参加させてもろうて一年。口だけは一丁前だったからゆうて商談交渉させてもろうて半年。ようよう独り立ちのための資金繰りで「アンタの人柄に掛けましょ」なんてぇ言う酔狂なスポンサーを見つけた意気揚々の帰りと言うのに此の様だ。
出る出るいっちょったらまっこと出おった。街道は最近山賊やらが出るから気をつけてと見送りに出てくれた者が言っていたがまさか自分が襲われるとは思わなかった。幸い何も取られはしなかったし怪我も無かったが街道を外れたのが拙かった。本来楽天家なので、何らぁなるにかぁーらん等と笑っていたがさて本当か。
歩けども歩けども本筋には戻れず、もう数時間けもの道を歩いている。腰にぶら下げていた水筒の中身はもう空だ。水の音もしないし雨の気配も無い、空は高く澄んでいて雲も薄く千切れて流れるばかりだ。
「よぉ、陸奥。生きちゅうか」
汗も出ない。半刻ほど前に唯一の道連れがぶっ倒れた。怪我などではない。恐らく脱水症状が原因。恐らく過労と極度の緊張が引き起こしているのだろう。気風も威勢も頭も人並み以上。商売での肝が幾ら据わっていようとまだ年端も無い娘だ。それに。
目の前であがなもん見せられてはのう。
ずるり、足底で落ち葉が滑る。忌々しい。衝撃でずり落ちかけた道連れを掛け声と共に背負いなおす。
「あとはやちっくとやき」
掠れた声が聞こえているかどうかは解らぬ。いつもの通り悪態でも吐いてくれれば気が紛れるのにさっきからうんとも言わぬ。
どっかで見た景色じゃ
枯れ掛けた薄。
落ち葉に縺れる脚。
重い背中。
暮れかけた太陽。
恐ろしいほどの既視感がすぐそこに居る。振り返れば掴みかかって殴りつけられるだろう。思考のループを食い止めるべく、いかんいかんと顔を上げた。太陽はまだ黄色い。なんちゃーがやない、まだ昼の域。あと数時間で里へ降りれば良いだけだ。足元ばかりを見ていた目線を奮い立たせるように少し上げた瞬間、思わず笑みが零れた。
「やっぱりワシ、最高の幸運の持ち主じゃ」
遠くで煙る細い煙が見えた。
「もうちょっとやき、待っちょれよ」
*
空が高いとぼんやり思った。蜻蛉が何匹もあちらへ此方へと交差している。秋だ、秋の夕暮れ間近。こんな風に空を見上げるなぞ童の頃にしたきりじゃ、そう陸奥は思った。 そういえばこうやって空ばっかり見上げている男がおった。空想家で虚言癖があって女にだらしなくて、楽天家で自信家で思い込みと運だけで生きちょるような男だ。多分今もその辺で暢気に転がっているのだろう。
「おい、辰」
傍にいるはずの男に喋ろうとしたが上手く舌が回らぬ。おかしいと思ったが最後、どうしたことかその空すらもだんだんと高く高く遠避く。いや遠ざかるのは自分なのだと漸く解ったとき、視界はいつもの半分以下で狭く窄まっていた。
これはいよいよいかんちや。
ここはどこだと問うも答える者の姿は見えず。自問するも埒のないばかり。随分遠くの方で人の話し声。おぉい陸奥、おぉい陸奥とおらびよる。
ほがぁにおらばいでも此処におるやか。
やかましい。
悪態を吐きながら返事をしようとしているのに声は出ない。腕を振ろうとしてもそれも叶わぬ。声は遠くなりはじめる。
見つけられんやったが。
探す声が遠ざかることにかすかな失望を感じ、黒く塗り潰される空を変わらず見た。
此処に居るぞ。坂本、よう見ぃ。
狭窄した視界に黒い綿のようなものが入ってきた。まるで春の雷雲のようだ。さっきまで良く晴れていたのに。
「口に含ませてやれ」
知らぬ声。けれども声は近い。
誰なが。
冷たい滴が、ほたほたと毀れる。口唇の極近いところに熱がある。柔らかな感触。生ぬるい雨。頬に毀れ、顎を伝う。口唇を濡らし、乾いた舌を湿らせる。
雨。
ぬるま湯のような。水だ。
「水?」
そう気がつき目を開けたときに視野狭窄は治まり、代わりに極近いところに見知った男の顔があった。毛糸玉のようなもじゃもじゃの髪の毛でそうと解った。
「坂本」
珍しゅう陰気くさい顔をしおってからに。
えいえい喋るなと椀に入れた白湯を渡される。自分で飲めるかえ、そう問われた。頷きながら今自分がその腕に支えられていることに漸く気が付いた。腕を離れるように起き上がり、受け取ったそれをごくごくと喉を鳴らし飲み切る。その傍からもっと飲めと並々と注がれた。普段ならもうえいと言える筈だが身体が乾いて仕様がない。
漸く一心地着いて周りを見れば、坂本と見知らぬ老人のような男が傍に居た。風体から擦れば隠遁者というところか、かの傍には掘っ立て小屋に毛が生えた程度の庵のようなものが在る。炭焼き小屋かと思ったらそうではない。
杣か。今飲んだ白湯も此の親爺が差し出したものだろう。礼を言ったがいやいやと手を振るだけでそれ以上を言わせなかった。
「どっから歩いて来んさったか?」
襲われた場所を告げるとあのあたりは出るのうと杣は髭の生えた顎を撫でた。攘夷戦争後、人々の生活は荒れた。職を奪われた幕臣たちは天人に戦争を仕掛け、その争乱で田畑は荒れた。一度は鎮静化したものの、今もあちらこちらで火種は燻っている。
農村も例外ではなかった。戦争の為の供出をしてしまえば荒れた田畑を抱えて飢え死にするばかりだ。困窮する生活の中、食うに困り里を捨て多くは江戸へ出稼ぎに出た。しかし食える者とのそうでない者の差は開く一方で、落伍者は捨てた里にも戻れず非合法の仕事に就いた者も多いと聞く。
昔に比べてどこも治安が悪くなった。都市だろうが農村だろうが同じことだ。ただ近代都市にはギャングが出て、農村には山賊が出る。その違いだ。連中もそういう類の者だろうか。
「里に下りるにゃあ、あとなんぼ掛かるかのう」
親爺は、大体朝はよう出て昼過ぎに着くといった。それでは真夜中の行軍を覚悟せねばなるまい。また迷う事しきりである。今宵の宿を坂本が頼むと杣は渋り顔をした。
「小屋は手狭じゃし、ワシが一人しか寝る場所がないしの」