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最初のきっかけは、初夏の昼休みだった。

昼下がりの廊下は妙に薄暗い。窓からの採光で十分視界が利くため、蛍光灯がオフにされているせいだ。
頭上を照らす光でなく、斜め情報から差し込む陽射しが作る陰影は余り見慣れるものではなく、各教科の準備室が連なる校舎の一角に足を向ける生徒が少ないこともあって、全体に僅かな緊張感を孕んだ雰囲気を生み出していた。
その廊下を、巻島は一抱えもある資料を担いで一人歩いている。教材の準備と片付けは各教科の担当の仕事であり、巻島は不幸にも入学早々、総北高校でも屈指の資料持ちである古典の担当を割り振られていた。

才能のある奴にはわからない、そんな叫びが廊下の曲がり角の向こうから聞こえてきたと思うやいなや、物凄い勢いでそちらから走ってきた人影とぶつかりそうになる。
危うく両手に抱えた教材をぶちまけそうになった巻島に謝りもせず、射殺すような視線だけを寄越して駆け去った人物に巻島は見覚えがあった。クラスは違うが、同じ自転車競技部に所属する同級生だ。名前は覚えていないし、多分これから覚えることもないだろう。
青春ドラマの見すぎじゃねェかアイツ、とぼやいて、追うことはしない。巻島は古典準備室に用があり、それは彼が駆けて来た方角に位置している。ただ……この先に向かうと、どうも気まずい思いをしそうな予感があった。

面倒だ、ああ面倒だ、面倒だ。望むと望まないとに関わらず、人間関係の厄介ごとはいつだって勝手に巡り来る。そんなものに、巻島はできることなら関わりたくなどなかった。好きだとか嫌いだとか惚れたとか腫れたとか、そんなくだらないものに時間を割くよりは一秒でも長く自転車に乗っていたい。誰にも否定されないぐらい、誰よりも早く、誰よりも高いところへ駆け登るために。
求めるのはただそれだけで、それだけなのにどうして雑音はいつも耳のあたりに纏いつくのか。

憂鬱な足取りで廊下を進む。床と上履きの底が擦れて甲高い音を立てるのはいつものことだが、今はそれがやけに大きい。
同級生がやって来た曲がり角に差し掛かると、巻島は深く息を吐いた。面倒くせェ。口の中で呟いて、心持ち歩幅を大きく踏み出す。入部当時から崩れたことのないあの無表情が、今はどんな顔で立ち尽くしているのかと思いながら、けれど。

「……あれ」

巻島は思わず拍子抜けした声を上げて立ち止まった。
曲がった先には、今やって来たのと同じ、人気のない妙な薄暗さの廊下だけが続いている。

廊下の奥には階段もあって、ついさっきまでここにいた筈の男が煙のように消えたわけでないのはわかっている。だが、巻島と彼の教室はまさに今立っているこの階に存在しており、わざわざ階段を上下する必要など本来はない。
こちらにやってくる巻島の足音に気づいて、人と顔を合わせるのが気まずく、わざわざ遠回りなルートを選んで立ち去ったのか。ここにいたのが巻島の思う人物であっているなら、そんな風に逃げるように立ち去るなど、実に似つかわしくない気がして不思議だった。
気にはなったが、積極的に関わろうとは思わない。内心引っ掛かるものを抱えたまま、巻島は自分の用を済ませて教室に戻った。

巻島にぶつかりそうになったあの同級生が退部することになった、と聞かされたのは、その日の練習が終わってからのことだ。
入部一年めのインターハイを目前に控えた、蒸し暑い夕暮れだった。
作品名:Missing 作家名:蓑虫