Missing
次のきっかけは、それから程なく巡ってきた。
インターハイが終わっても、二年生と三年生の巻島への風当たりは入部当時と変わらない。むしろ三年生のクライマーを引退でなくす総北高校自転車競技部にとって次代のクライマーを『正しく』育成することは重要な課題で、巻島のフォームが少しでも『崩れ』れば前にも増して容赦なく修正されるようになった。
自転車に乗るのも坂を登るのも、巻島には呼吸と同じぐらい生きるために必要なものだった。常に泳いでいなければ命を繋げない魚が存在すると生物の授業で習ったのはいつだったか、その魚の種類を何と呼ぶのかは忘れたが、自分の心はそれに近いつくりをしているように思う。
言葉も表情も建て前もキレイごとも関係なく、剥き出しの自分でいられる場所が巻島にとっては自転車の上で、そこしか無い。その唯一の場所にあって他人の指図に従えと強要されるたび、首を絞められるのと変わらない苦痛を覚えて奥歯を噛んだ。彼らの物知り顔を黙らせてやると心に決めてがむしゃらに孤独な練習を重ねたけれど、時折、唐突に全ての力が体から抜け落ちていくような虚脱を感じることがある。
そんなとき、巻島は決まってふらりと人から離れた。入学から半年と少し、特筆するような友人関係を築いて来なかった巻島だが、目立つ髪色のおかげで他人の視線から完全に切り離されるのは難しい。
校内の、人気のない場所を試行錯誤して最後に辿り着いたのは、屋上という何とも芸のない解答だった。最近の学校には珍しく屋上は生徒に開放されているけれど、夏は暑く冬は寒く、春には花粉が秋には枯れ葉が海風に舞う吹き曝しの場所に、すすんでやって来る者はそういない。いてもそれは概ね巻島と同じ目的の、つまりは一人になりたくてどうしようもない類の人間だ。屋上へ続く扉を開け放った時、そこに疎らな人影を見ても「人がいる」とは巻島は思わなかった。そこには幾つかの「一人」があるだけで、決して複数になることはない。
ただ、その日は少し事情が違った。薄暗い階段から陽の当たる屋上へ、思い鉄の扉を押し開けたとき、真っ先に意外な人物の背が目に飛び込んできたからだ。校庭に面した側の手摺に肘を乗せ、俯きがちに佇む姿は巻島の見知った男のそれとはかけ離れた雰囲気を背負って、けれど見間違えるわけはない。
金城。
思わず自分の気鬱も忘れ、呼ぼうとした名前を危うく飲み込む。
部活で溜まった澱をどうにか消化したくて来たのに、同じ部活の――それも二年三年の覚えめでたい男に声をかけてどうしようと言うのか。雑談を交わすような気分ではないし、共通の話題があるわけでもない。
それに、巻島の存在にまるで気づかずどこかを眺めている金城の背中は、海からの風が吹き抜けていくがらんとした屋上に少しも違和感なく沈み込んでいた。地に根を張った樹のような普段の雰囲気はそこになく、むしろその枝に引っ掛かって取り残された風船のような。
結局、巻島はそのまま屋上に留まることはしなかった。
ざわめく教室に戻る途中で酷く沈んだ面持ちの田所に肩を叩かれ、寒咲さんの検査結果が出たんだってよ、と告げられた。
その時感じていたのは親近感だったろうか。そこまで明確なものではなかったように、巻島は思う。
意外だったのだ。諦めることを知らない男、不屈の精神……そんな恥ずかしくなるような形容が似合ってしまう同級生にも、大地に張った根の部分が揺らいでしまうような時はあるのだと。巻島と違って望めば誰だって手を差し伸べるだろう金城が、そんな時には敢えて一人になろうとするのだと言うことが。
秋が過ぎ冬になり、それからも何度か巻島は屋上で金城と遭遇した。給水タンクの影でぼんやりと時を過ごす巻島が金城の存在に気づくこともあれば、申し訳程度に設置された、色褪せたベンチで文庫を読む金城がほんの一瞬だけ巻島の方に視線を上げて寄越すこともある。
それほど頻繁に屋上を訪れるわけではないから、そこで顔を合わせる頻度は一月に一度以下だ。会話を交わすどころか挨拶もしない。ただ相手の姿をそこに認めると、ああ来ているな、と思うようにはなっていた。
――インターハイ前に辞めたあの同級生と物別れした日にも、金城はここに来ていたのだろうか。