距離感
「今日の調子、いいな!」
「はい」
ボールを受けている捕手の言葉に投手が返す。
握る力が強くなるのは気合が入った証拠だ。一度息を吐いて力の入りヌキをリセットし、投球フォームを整える。
天気のいい午後。今日も桐青高校の野球グラウンドに高校球児の声が響き渡る。
現キャプテンの河合和己は投手に向けてミットを上げた。
一年後輩の高瀬準太の放る白球がいい音をさせ、腕に伝わってくる今日の投手の調子。顔はいつもどおりのポーカーフェイスだが、球を受けてみればすぐに分かる。キレもいい。コースも。こちらの要求どおりの球を投げてくるエースに、河合の表情が和らぐ。
放課後の部活は日が落ちても続く。白い球が見えにくくなる黄昏時から照明が点り、休憩を挟み今日のメニューをキャプテンの河合の号令の下、消化していく。
練習後、シャワーを浴びて着替えを済ませていく生徒で更衣室は一時ごった返した。その後、潮が引くように次々に居なくなり、残るのはキャプテンの河合を除くと高瀬だけになっていた。
「準太、まだ帰らないのか?」
制服姿で更衣室のドアを開けて入ってきた河合に、濡れた髪をタオルでぬぐっていた高瀬が弾かれたように振り向いた。
「あ、スミマセンすぐに…」
調子のいい日こそ、念入りにダウンするように心がけている高瀬は最後にシャワーを浴びたのだ。それに付き合ってくれた友達は高瀬よりもさっさと身支度を終えて空腹を訴えながら帰っていた。
更衣室の鍵を管理する河合は最後にしか部屋を出れない。自分のせいでいつまでも帰られないのだと察し、高瀬はあわててバッグに洗物を詰め込んだ。
「いいよいいよ、あわてなくて。俺もまだ支度終わってないし」
高瀬の反応が可笑しかったのか、河合が笑いながら返す。
彼の感情のこもった言葉が高瀬は好きだった。やさしく包み込むようなその声色と口調はいつまででも聞いていたくなるほどに耳障りが良かった。
「なら俺、和さん待ってますね」
「おう。途中までな」
ロッカーの扉を開けてその前に河合が立つと扉で河合の顔が見えなくなる。
高瀬は無遠慮に視線を向けた。その無意識さに河合が苦笑していることに、高瀬本人は気付いてはいない。
動くたびに見える耳や首筋、後頭部、背中、腰…。
自分の球を受けてくれる捕手を視界に入れるのが心地よくて、高瀬は壁際のパイプ椅子に腰掛けて言葉も発せずにじっとしていた。
「そうだ、準太。途中で何か食って帰らないか?」
「?」
練習後の反動か、高瀬は言葉を発せずぼんやりとしている。乳酸が大量発生している独特の体内のだるさに、声でなく表情で返事をする。
「ハラへったよなぁ。準太が時間あるなら…だけど」
「あ、あります!!」
「おう。なら急いで準備するな」
扉から顔を出して高瀬に微笑む河合に、高瀬も頷く。その表情のまま、制服のポケットに入っているケイタイを取り出し、メールを打ち出した。
家へ、少し帰るのが遅くなるという連絡だ。食事も軽くしてくるということも付け加えた。
電子音が小さく響く室内に河合の衣擦れの音と互いの呼吸音。
どちらが意識するでもなく二人きりの部屋。外は暮れて夜色が増し、蛍光灯の灯りが更衣室の存在を浮かび上がらせる。
パタンとケイタイを閉じる音と河合がロッカーを閉じた音が重なったそのとき、ドアノブが回された。
「わ、すれものー」
歌うような調子で入ってきたのは河合と同じく三年の島崎慎吾だった。
「慎吾、忘れ物か」
「借りたノートのコピー、そのまま置いて帰るトコでさ。…ん? 準太も居るのかー」
いつもの調子で砕けた口調の島崎が二人の雰囲気に入ってくる。
「ノート? 次の小テスの範囲?」
「そそ。俺あのあたり微妙でさ、虎の巻発動ってわけ」
クラスの友達からの助け舟を取りに戻ったらしい島崎がそのコピーを広げて河合に見せる。支度の手を止めて河合があごを上げてそれに目を通していた。
「和己いるか?」
「いいや、その辺は別に不安ねえから。そっか、そういや明日だったなぁテスト」
思い出したようにつぶやく河合に、高瀬の居心地がさらに悪くなる。島崎が入ってきてから変わった空気に感じていたかすかなそれが、色濃くなっていた。
「あ、俺先に帰ります」
「準太?」
どうしたのかと河合が振り向いて高瀬に声をかける。
一緒に帰る約束をしていたのだ。しかも食べ物屋による予定まで立てて。なのにこの展開だ。河合が驚くのも無理はない。
「テスト、頑張ってくださいね。じゃあ、お疲れ様でした」
ドアを閉めて出て行く高瀬は己が気持ちだけで余裕がなく、自分が言った言葉の意味まで意識が回らない。
島崎がかすかに眉をひそめていたことにも思いもよらず、暗い道を走って行った。