魔王と「 」
現実に踏みにじられるものを呆然と見つめる。その眼差しを知っている。胸が痛む。それはいつだって受けてきた。俺がもたらした惨状を見つめる人々の目だ。今、その目が縋るように俺に向けられている。そこに滲むのは渇望と希望。俺の求める日常を体現したかのような平凡な高校生。容姿に不釣合な貪欲さが無数の星を飲み込んだ夜天のようにきらきら光る。俺を見る度に、その眼差し浮かべる痛みと決意と孤独が、鼓動を狂ったように加速させる。救えるかもしれない。守れるかもしれない。お前が俺を求めるのなら。愚かな期待がもう一度芽生えた。
きっとずっと守るから。愛してくれ。愛されてくれ。そして、二人きりに世界を閉ざそう。
俺もお前も傷つける世界ならいらないだろう。
ヒーローに成り損なった男の成れの果てだった。
魔王と「 」
都市伝説さえ日常とする街。その路地裏は、いつだって触れてはいけないもの、見なかったことにしなければいけないものであふれている。
そんな非日常に惹かれてやまないリーダーの姿を脳裏に浮かべながら、その後輩はどう見たって賢くない選択をする。
それは、喧嘩中の自動喧嘩人形に近づくこと。
賢しい後輩は知っていた。
これはケダモノだ。
いつ襲いかかられるかわからない。爆発物のような取扱危険人物。いわば野に放たれたライオンに話しかけるようなものだ。言葉なんかで制御できない。本能で生きているる化物。沸点に触れたら最期。ごくりと唾を飲み込む。そんなリスクを押してでも聞き出さなければならないことがあった。
先程まで人外の力を爆発させていた長身が、己の拳で沈めた男達の真ん中で、かき集めた携帯電話を踏みつぶしている。無残に壊されていく機械の断末魔が響く。足音を立てることにすら恐れを抱いている自分に、青葉は自嘲した。
敵の気配に敏感な獣は、音もなく近づいてきた小さな影にゆっくりと視線を向ける。サングラスに隠された瞳は一切の感情を表さない。
「なんだ、お前もか?」
気だるげに、まるで惰性のように向けられる敵意。その凄まじさに足が竦んだ。
「いいえ。僕は、帝人先輩のことを聞きたくて」
「あ?お前、帝人の後輩か」
全身に悪寒が走るほどの威圧感が一気に削ぎ落とされる。それなのに、なぜだろう。不吉な予感が募る。
「元気ですか?先輩は」
震えそうな声をわざと甲高くして体裁を整え、ぎこちない笑みを浮かべる。みっともない自分の有様はかなり屈辱的だ。だが、目の前の男は端から青葉には何の興味もなかったらしい。
「ああ、元気にしてるさ」
「最近連絡もないし、学校にも来てないから、心配だったんです」
「別に何もねえよ。お前が気にすることじゃねえ」
「そうはいきませんよ。先輩は僕らのリーダーですから」
「お前、ブルースクエアの奴か」
いつのまにか力一杯握り締めていた青いバンダナに、今更ながらに静雄の目が止まった。
帝人が姿を消した後、ブルースクエアと黄巾賊はこの化物の強襲にあった。カラーギャングの抗争など意にも介さないという姿勢を貫いてきた池袋最強の変化は、どちらにも甚大な被害と大混乱をもたらした。
だが、同時に、メンバーから上がった報告は、青葉に行方不明になっていたリーダーの手がかりをもたらした。
平和島静雄は、竜ヶ峰帝人がやろうとしていることを力づくで聞き出そうとしていた。
そう、こいつは知っている。帝人がブルースクエアのリーダーであることも、ダラーズを取り戻すために帝人が何をしていたのかも。
「はい。僕らは帝人先輩の駒です。だから、先輩が指示してくれないと」
「お前らはもういらねえ。帝人には俺がいるからな」
「でも、帝人先輩は、」
瞬く間に膨らんだ殺意が青葉に襲いかかる。本能的な恐怖に、思考より先に震える足が後ずさりしようとしていた。ぎらぎらと凶暴な光を宿したサングラス越しの目が、秒読み段階に入ったことを知らせる。
「聞こえなかったのか。あいつのものは俺だけでいいんだよ」
「先輩がそう言ったんですか?」
言い終える前に、ビルの壁にたたきつけられた。吹っ飛んだという認識すらなかった。意識が追いついたのは、身体が鈍い痛みを訴えだしてからだった。
苦痛と闘いながら顔をあげると、もうそこには静雄の姿はなかった。
とんでもない化物に引っかかってくれたものだ。呻き声を押し殺しながら、青葉は心の中で哂った。まるで敵わなかった。当たり前だ。ブルースクエアを率いているとはいえ、青葉自身に力があるわけではない。そもそもブルースクエア全員でかかっても、力で平和島静雄に太刀打ち出来るはずもない。だが、だからこそ、青葉は確信していた。帝人はまだブルースクエアを切っていない。
平和島静雄の反応で、一番知りたかったことは知れた。この状況は帝人が望んだことではない。それなら、必ず帝人は静雄の檻から出てくる。ブルースクエアは、今は息を潜めてその時を待てばいい。
二人きりなんて狭い世界で、帝人が満足するわけがないのだから。
※
「ただいま」
応えのない扉を開けることに不安など覚えない。家主のいない間も煌々と明かりの灯されたマンションの一室に入ると、幽かな声が奥の部屋から聞こえた。
寝室か。
ベッドの上で身を起こす人影は、かすれた声でもう一度おかえりと告げてくる。その細い手首から伸びる鎖を、解いて、この小さな身体には苦痛でしかなかったろう重さから解放してやる。白に灯る赤に溢れる喜悦の感情を抑えつけながら、静雄はその小さな手に指を絡めた。
静雄が不在の間代わりを任せていた枷も、当人が居る以上邪魔物でしかない。その手以上の枷など存在しないのだから。
「土産だ」
がしゃんと音をたてて床に散らばったのは、液晶の割れた携帯電話の残骸。がしゃんがしゃんと耳障りな音をたてて積み上げられていくその山を、表情を消した帝人が見つめている。
「まだ足りないか」
帝人は何も答えない。あの日、静雄が帝人を外に出さないと決めた時も、じっと大きな目で見つめるだけだった。
喜びも悲しみも表さないその顔に今日も失望を覚えながら、伸びてきた黒髪を撫でる。外に出さなくなってから、白い肌はますます白くなっていく。日差しすら届かない場所で、今やこの白を汚すのは静雄の手だけだ。
「腹減ってないか?」
「晩ご飯、できてますよ」
「また作ってくれたのか。それ重かっただろう」
「いいえ、慣れましたから」
当たり前のように返ってくる言葉に隠された感情を少しでも掴みたかった。
「嫌か?」
「いえ、」
ぼんやりと静雄を見上げていた視線が床を滑る。思わぬ反応に虚をつかれて、少しの仕草も見逃すまいと、凝視する。
ゆっくりと開かれる唇から目を離せない。愚かな期待を膨らませて、迷いに揺れる瞳を見つめる。
「帝人」
言ってくれ。どうか。
「僕は、あなたがすることを嫌だと思ったことはありません」
届いたのか、ようやく、いや、まだ。まだ、一番肝心のことを聞いていない。
「好きだ」
日焼けしない頬が赤く染まる。握った手が熱いのは、どちらの熱のせいだろう。
「ずっとここにいてくれ」