あなたといると…
人付き合いというものは、とかく難しいもので。
その中でも「3人組」というのは特に難しいと思うのです。
珍しく突然訪ねてきたかつての弟子は、暗い色の瞳で言った。
太陽のような、大地に咲く花のような、欧州の方々の華やかな外見に気後れしてしまうのかも知れません。私だけ家が遠く、知り合って日が浅いからと遠慮をしてしまうのかも知れません。ずいぶん歳が違いますから、ジェネレーションギャップというのもあるのかも知れませんね。
ただやはり、お二方の間には、私には立ち入れないほどの強い絆があるように思うのです。
俺はジョッキに残ったビールを飲み干しながら、そんなこともないだろ、と慣れない慰めの言葉をかける。
ヴェストだってイタちゃんだってちゃんとお前のこと好きだし気にかけてんぜ。
乏しい表情。眉が少しだけ下がり、笑ったように見える。
こいつ特有の困り顔だ。
…ええ、好かれているのは知っていますよ。
まあ…そう思うと、私は幸せなのかも知れませんねぇ…。
けれど時々ひどく寂しくなるんですよ。
結局私は誰かのいちばんになることはないんじゃないかと思ってしまって。
ふふ、おかしいですよね。
夜の色の髪がさらりと揺れる。
少し酒に弱いそいつは、もうずいぶん酔ってしまっているようだった。
赤みを帯びた、凹凸の少ない顔。俺たちに比べるとずいぶん幼く見えるその顔を、俺は美しいと思う。
だから私のいちばんはいつだって二次元なんですよ。
ゆらゆらと揺れる瞳の中に映っているのはオレンジ色の間接照明だけ。
決して俺のことは映さない。
…二次元ねぇ…。
ええ、二次元です。
いつだってどこだってそばにいて、私に笑いかけてくれるんですから。
二次元ねぇ…。
ヨーロッパではなかなか見ることのないやわらかい笑顔。
「たおやか」というんだと教えてくれたのはいつだったか。
でも違う。今日は違う。だってこんなにも苛々する。
二次元だってお前がいちばんってわけじゃねぇだろ。
ええ、そうですね。
私は二次元のいちばんにはなれません。
その代わり二次元は誰のものにもならない。
そういう平等なところが好ましいと思うのです。
両想いのふたりに嫉妬するのは疲れますからね…自分がとても醜くて、小さな存在になってしまうような気がして…。
また眉を下げて笑う。
やめろよ。お前のその顔好きじゃねぇ。
喉まで出かけた言葉を飲み込んで、代わりの言葉を探す。
うまい言葉はみつからないから、思ったことを率直に言ってみた。
あー、お前さ、その口振りだとその…ヴェストかイタちゃんかどっちかに気があるみてぇだぞ。
おや、そう聞こえますか?
驚いたように目を丸くして、それから目を細めてくつくつと愉快そうに笑う。
そう聞こえるってよか、そうとしか聞こえねぇよ。
案外今日いきなりうちに来たのだって、俺じゃなくてヴェストに会いに来たんじゃねぇのか?
告白でもしに?
口元に笑みを浮かべたままはじめて俺の眼をまっすぐに見た。
その眼は決して笑ってなんかなくて、冗談みたいに言った言葉が実はほんとうのことだったのではと思わせた。
黒い瞳は鏡のように、ひどく不安そうな顔をした俺を映す。
くそ、なんだってこの俺様がこんな顔してんだ。
弱々しい表情の自分が不快でまたジョッキをあおる。黒い瞳は強引に視界の外へ追い出した。
そんな顔なさらないでください。
そう言いながらテーブルの上にぱたりと身体を倒した。
よほど酔っているらしい。喉の奥の方でくつくつと笑う声が天井に壁に跳ね返って部屋中に響く。
ねえ師匠。
ししょう。
懐かしい呼び方で、俺のことを呼ぶ。
だんだん呂律が怪しくなってきた。
女のような造作の顔とは正反対にごつごつと節の目立つ指が近づいてきて、俺の髪を一房、ぱさりと掬った。
くつくつ、くつくつ。
ああ、綺麗ですね、師匠の髪は。
月の光みたいです。
師匠は綺麗です。
綺麗。
私もこんなふうだったらよかったのに。
そう言ったきり闇色の瞳は閉じてしまって、規則正しい呼吸の音が響き始める。
控え目なようでやたらと耳に残るあの笑い声ももう聞えない。
どうやら眠ってしまったみたいだ。
そういえばこいつにしては珍しく、今日はずいぶん飲んでたもんな。
頬杖をついてぼんやりと日本の顔を眺める。
黄色みを帯びた不思議な色合いの肌。伏せられたまつ毛はやはり長く、頬に影を落としている。
俺よりよっぽど年上なくせに全然そんなふうに見えないのは、全体的にパーツが丸いからなんだな。
白雪姫ってもしいたらこんな感じかもしれねぇ。
初めて出会ってこんな感想を持ってから、もう100年以上経つけど。
こいつはずっと変わらない。
自分の容姿に、劣等感を持ったままだ。
つやつやした上等の絹のような黒髪が、額の上をさらりと滑って行く。
お前の方がよっぽど綺麗だろ。
つぶやきはぽろりとこぼれて消えていった。
ふわふわした浅い眠りの中で、なんだか幸せな言葉を聞いた気がします。
けれどその余韻も、目覚めた直後から襲ってきた強烈な吐き気にかき消されてしまって、私は思わず口元を覆いました。
見なれない家。
見なれない部屋。
見なれないベッドの上で私はひとりで。
しかしここはドイツさんとプロイセンさんが住んでいらっしゃる家であることは覚えています。
何度かお邪魔したこともありますので、お手洗いの場所も、わかる、と思います。
たしか、廊下の端に。
くらくらと重い頭を持ち上げ、頼りない脚を交互に踏みしめながら歩き始めると、その振動のせいか胃がぐぶりと不快な音を立てました。
ああ、限界が近い。
早く。
早く。
焦る気持ちを嘲笑うような千鳥足がもどかしい。
こんなときばかりは欧州の広い家というものが恨めしくなりますね。
長い廊下を半ば這うように渡りきり、お手洗いのドアを開きます。
床に膝をついた瞬間に胃の中のものが勢いよく逆流してきたので、私は半ば便器の中に顔を突っ込むような形で、ひたすら上がってくるものを吐き出し続けました。
息が詰まり、生理的な涙が頬を伝っていきます。
すべてを吐き出し終え、ゆっくりと息を整えながら涙をぬぐいました。
口の中に広がる酸っぱいような苦いようななんともいえない味が不快で、口をゆすぎに行こうと思った時です。
私の顔の横にミネラルウォーターのペットボトルが差し出されました。
その筋張った手の持ち主なんて考えるまでもありません。
ほれ。飲むなり口すすぐなり好きにしろよ。
ああ、すみません。無様なところをお見せしてしまって。
別にいい。
ぶっきらぼうで短い返事。
怒らせてしまったでしょうか。
少しだけ汗をかいたペットボトルはひんやりと冷たくて気持ちがよくて、蓋を回すとカチリと硬質な音がなりました。
水を口に含んで転がし、吐きだす。
それを幾度か繰り返すと、あの不愉快な味は薄れ、消えていきました。
ペットボトルに残った水を飲み干すとようやく人心地ついたのか、とりとめもなく考えがめぐり始めます。
いつから見られていたのでしょう。
無様な姿を晒してしまいました。
どう思われたでしょうか。
嫌われていないといいのですが。
その中でも「3人組」というのは特に難しいと思うのです。
珍しく突然訪ねてきたかつての弟子は、暗い色の瞳で言った。
太陽のような、大地に咲く花のような、欧州の方々の華やかな外見に気後れしてしまうのかも知れません。私だけ家が遠く、知り合って日が浅いからと遠慮をしてしまうのかも知れません。ずいぶん歳が違いますから、ジェネレーションギャップというのもあるのかも知れませんね。
ただやはり、お二方の間には、私には立ち入れないほどの強い絆があるように思うのです。
俺はジョッキに残ったビールを飲み干しながら、そんなこともないだろ、と慣れない慰めの言葉をかける。
ヴェストだってイタちゃんだってちゃんとお前のこと好きだし気にかけてんぜ。
乏しい表情。眉が少しだけ下がり、笑ったように見える。
こいつ特有の困り顔だ。
…ええ、好かれているのは知っていますよ。
まあ…そう思うと、私は幸せなのかも知れませんねぇ…。
けれど時々ひどく寂しくなるんですよ。
結局私は誰かのいちばんになることはないんじゃないかと思ってしまって。
ふふ、おかしいですよね。
夜の色の髪がさらりと揺れる。
少し酒に弱いそいつは、もうずいぶん酔ってしまっているようだった。
赤みを帯びた、凹凸の少ない顔。俺たちに比べるとずいぶん幼く見えるその顔を、俺は美しいと思う。
だから私のいちばんはいつだって二次元なんですよ。
ゆらゆらと揺れる瞳の中に映っているのはオレンジ色の間接照明だけ。
決して俺のことは映さない。
…二次元ねぇ…。
ええ、二次元です。
いつだってどこだってそばにいて、私に笑いかけてくれるんですから。
二次元ねぇ…。
ヨーロッパではなかなか見ることのないやわらかい笑顔。
「たおやか」というんだと教えてくれたのはいつだったか。
でも違う。今日は違う。だってこんなにも苛々する。
二次元だってお前がいちばんってわけじゃねぇだろ。
ええ、そうですね。
私は二次元のいちばんにはなれません。
その代わり二次元は誰のものにもならない。
そういう平等なところが好ましいと思うのです。
両想いのふたりに嫉妬するのは疲れますからね…自分がとても醜くて、小さな存在になってしまうような気がして…。
また眉を下げて笑う。
やめろよ。お前のその顔好きじゃねぇ。
喉まで出かけた言葉を飲み込んで、代わりの言葉を探す。
うまい言葉はみつからないから、思ったことを率直に言ってみた。
あー、お前さ、その口振りだとその…ヴェストかイタちゃんかどっちかに気があるみてぇだぞ。
おや、そう聞こえますか?
驚いたように目を丸くして、それから目を細めてくつくつと愉快そうに笑う。
そう聞こえるってよか、そうとしか聞こえねぇよ。
案外今日いきなりうちに来たのだって、俺じゃなくてヴェストに会いに来たんじゃねぇのか?
告白でもしに?
口元に笑みを浮かべたままはじめて俺の眼をまっすぐに見た。
その眼は決して笑ってなんかなくて、冗談みたいに言った言葉が実はほんとうのことだったのではと思わせた。
黒い瞳は鏡のように、ひどく不安そうな顔をした俺を映す。
くそ、なんだってこの俺様がこんな顔してんだ。
弱々しい表情の自分が不快でまたジョッキをあおる。黒い瞳は強引に視界の外へ追い出した。
そんな顔なさらないでください。
そう言いながらテーブルの上にぱたりと身体を倒した。
よほど酔っているらしい。喉の奥の方でくつくつと笑う声が天井に壁に跳ね返って部屋中に響く。
ねえ師匠。
ししょう。
懐かしい呼び方で、俺のことを呼ぶ。
だんだん呂律が怪しくなってきた。
女のような造作の顔とは正反対にごつごつと節の目立つ指が近づいてきて、俺の髪を一房、ぱさりと掬った。
くつくつ、くつくつ。
ああ、綺麗ですね、師匠の髪は。
月の光みたいです。
師匠は綺麗です。
綺麗。
私もこんなふうだったらよかったのに。
そう言ったきり闇色の瞳は閉じてしまって、規則正しい呼吸の音が響き始める。
控え目なようでやたらと耳に残るあの笑い声ももう聞えない。
どうやら眠ってしまったみたいだ。
そういえばこいつにしては珍しく、今日はずいぶん飲んでたもんな。
頬杖をついてぼんやりと日本の顔を眺める。
黄色みを帯びた不思議な色合いの肌。伏せられたまつ毛はやはり長く、頬に影を落としている。
俺よりよっぽど年上なくせに全然そんなふうに見えないのは、全体的にパーツが丸いからなんだな。
白雪姫ってもしいたらこんな感じかもしれねぇ。
初めて出会ってこんな感想を持ってから、もう100年以上経つけど。
こいつはずっと変わらない。
自分の容姿に、劣等感を持ったままだ。
つやつやした上等の絹のような黒髪が、額の上をさらりと滑って行く。
お前の方がよっぽど綺麗だろ。
つぶやきはぽろりとこぼれて消えていった。
ふわふわした浅い眠りの中で、なんだか幸せな言葉を聞いた気がします。
けれどその余韻も、目覚めた直後から襲ってきた強烈な吐き気にかき消されてしまって、私は思わず口元を覆いました。
見なれない家。
見なれない部屋。
見なれないベッドの上で私はひとりで。
しかしここはドイツさんとプロイセンさんが住んでいらっしゃる家であることは覚えています。
何度かお邪魔したこともありますので、お手洗いの場所も、わかる、と思います。
たしか、廊下の端に。
くらくらと重い頭を持ち上げ、頼りない脚を交互に踏みしめながら歩き始めると、その振動のせいか胃がぐぶりと不快な音を立てました。
ああ、限界が近い。
早く。
早く。
焦る気持ちを嘲笑うような千鳥足がもどかしい。
こんなときばかりは欧州の広い家というものが恨めしくなりますね。
長い廊下を半ば這うように渡りきり、お手洗いのドアを開きます。
床に膝をついた瞬間に胃の中のものが勢いよく逆流してきたので、私は半ば便器の中に顔を突っ込むような形で、ひたすら上がってくるものを吐き出し続けました。
息が詰まり、生理的な涙が頬を伝っていきます。
すべてを吐き出し終え、ゆっくりと息を整えながら涙をぬぐいました。
口の中に広がる酸っぱいような苦いようななんともいえない味が不快で、口をゆすぎに行こうと思った時です。
私の顔の横にミネラルウォーターのペットボトルが差し出されました。
その筋張った手の持ち主なんて考えるまでもありません。
ほれ。飲むなり口すすぐなり好きにしろよ。
ああ、すみません。無様なところをお見せしてしまって。
別にいい。
ぶっきらぼうで短い返事。
怒らせてしまったでしょうか。
少しだけ汗をかいたペットボトルはひんやりと冷たくて気持ちがよくて、蓋を回すとカチリと硬質な音がなりました。
水を口に含んで転がし、吐きだす。
それを幾度か繰り返すと、あの不愉快な味は薄れ、消えていきました。
ペットボトルに残った水を飲み干すとようやく人心地ついたのか、とりとめもなく考えがめぐり始めます。
いつから見られていたのでしょう。
無様な姿を晒してしまいました。
どう思われたでしょうか。
嫌われていないといいのですが。