ラ・カンパネルラ
―――物語は挫折から始まる。
少女は涙した。その演奏に心を奪われたからではない。自分以外の人間がこれほどの音楽を聞かせるのを、初めて聞いたからだった。
こんなものを、私は知らない。
理解することなどできない。する必要も、理解しようと思う脳のキャパシティもない。そもそも、こんなことがあるだろうか。デタラメで、不正確で、心臓を刺激する。けれど、それなのに。こんなにも、心地いい。
モーツァルト、「ピアノソナタ第6番ニ長調 K.284」
ナターリヤ・アルロフスカヤは音楽室で軽々と演奏をする一人の男子生徒を見て、唇をぎゅっと噛んだ。
それは羨望。それは屈辱。そして、劣等感。
この男の出す音は、ナターリヤには到底出すことのできない音だった。24分にも渡る全楽章を弾き終えると、その男は、にこりと笑った。額には汗も見られない。
「なにか?」
余裕を見せて首を傾げるその男を見て、ナターリヤは涙を堪えることができなかった。負けた。完全なる敗北。今まで自分の全てだと、思っていた。音楽が。演奏することが。しかし、この男は、ナターリヤの目の前で、いともたやすく、プライドを、誇りを、ナターリヤの唯一の矜持を。叩きつけ、そして、圧し折った。
負けた。私が。ナターリヤ・アルロフスカヤが。ナターリヤはぎゅ、と力強く拳を握った。唇からはじわりと血が滲んでいた。口の端を切ってしまったのだ。悔しい。悔しい。私には、そんな音、だせない。
ナターリヤは男を、キッと一度だけ睨んでから、音楽室を飛び出した。
春の初めの頃だった。ふわりと香る風はほのかに、桜の匂いがした。