ラ・カンパネルラ
ピアノを始めたのは、確か5歳の時だった。
なにか習い事をすることになって、なんとなく、ピアノを選んだ。ただそれだけだった。しかし、その選択はナターリヤの人生を大きく変えることになった。
近所のピアノ教室に週に一度通った。上達するのが楽しくて、家で毎日練習するようになった。右手だけで弾いていたピアノは、両手で弾けるようになり、楽譜を見ないでも弾ける曲が増え、ついにはコンクールにでるようになった。家族はナターリヤを応援し、そして何度も褒めてくれた。すごいね、ナターリヤ。すごいね。上手だね。父も、母も、兄も、姉も。期待されることは重荷ではなかった。ナターリヤは必ず結果をだしてきたからだ。
大好きな兄や姉に褒められるのが嬉しくて、何度でもコンクールにでた。そして賞状とトロフィーを受け取った。
音楽に関わる学校を選んだのは、当然といえば当然のことだった。
もっとうまくなりたい。誰よりも。私は一番でなくてはならない。いつだって。どこだって。
環境が変わっても、ナターリヤが一番であることは変わらなかった。そう。変わらないはずだった。あの男に出会うまでは。
ナターリヤが入学した音楽学校は、その地域で最も優秀な生徒が集まるところであり、環境や講師も整えられていた。優秀な生徒が集まるその中でも、ナターリヤの才能は他のものよりも抜き出ていた。なにより、ナターリヤは努力を怠らなかった。より高く、より高く。上の上、その上の、より遥かな高みを目指して。
しかし、出会ってしまった。
その男。本田菊と。
高校二年の春、本田菊は難易度が高いと有名な編入試験をくぐりぬけて編入してきた。しかも、本田菊はその試験で満点をとったのだった。瞬く間に噂は全校を駆け巡り、本田菊は時の人となった。ナターリヤは、というと、隣のクラスの編入生に現を抜かしている暇などなく、またそんな噂に興味など毛ほどもなく。いつも通りの毎日を送っていた。
遅咲きの桜が揺れる中庭を横目にしながら、ナターリヤは音楽室に足を向けていた。学校の音楽室は全部で五つある。いつでもそこは開放されており、だれでも好きな時にそこに置かれているピアノを演奏することができた。放課後練習する生徒はそれぞれの練習室を使うことが多かったが、ナターリヤは音楽室を使うのが好きだった。広い音楽室には手入れの行き届いたグランドピアノが備え付けられており、その広い教室を自分が奏でる音でいっぱいにするのが好きだったからだ。更に音楽室でピアノを弾くと、弾き方によっては校庭にまで音を響かせることができた。放課後に響くナターリヤのピアノは、一種の名物にもなっていたのだ。
北校舎の端に位置している第三音楽室。扉に手をかけ中に入ると、既にグランドピアノに手をかけている人物がいるようだった。先客がいるのなら仕方がない、と他の音楽室に向かおうと背を向けた瞬間。その時、その人物は突然演奏を始めた。ピアノソナタ。聞き覚えのある曲だった。しかし、こんなピアノソナタを、ナターリヤは聞いたことがなかった。拳は知らず知らずのうちに強く握られ、唇の端を噛んでいた。演奏が終わるまで、ナターリヤは音楽室から出て行くことができなかった。聴きたい、と思ってしまった。立ち続け、そこで演奏を聞いた。軽々とピアノに触れる男は、ナターリヤのことなんて気にせずに自分の好きなように演奏を続けた。モーツァルト。しかも難易度の高い第6番を、こんなに優雅に、簡単に、演奏できるなんて。
聞き終わると、ナターリヤの足は自然と音楽室から遠のいた。あの男と同じ部屋にいたくない。何故だかわからないけれどぼろぼろと零れ落ちる涙を、ぐいと拭った。ナターリヤは屋上に来ていた。音楽室のすぐ近くの階段から、北校舎の屋上に行くことができるのだ。放課後だからか、屋上にいる生徒はいなかった。ナターリヤは緊張の糸がぷつりと切れたように、その場に崩れ落ちた。ぽろぽろ流れる涙は、止まらなかった。まさかこの私が、嫉妬で、羨望で、涙を流すなどと。一度演奏が終わった第三音楽室からは、今度はベートーヴェンのピアノソナタが流れてきた。節操のないことだ。
ベートーヴェン、「ピアノソナタ第17番ニ短調 Op31-2」通称、「テンペスト」
ナターリヤは屋上の鉄格子をぎゅっと握った。この屈辱をどうすすぐか。それだけが、頭の中を回っていた。