ラ・カンパネルラ
次の日、ナターリヤはHRが終わると一目散に第三音楽室に向かった。昨日の男が来る前に、ピアノに触れたかった。今日もそいつが来るかどうかは、ナターリヤにはわからなかったけれど。
グランドピアノに触れて、鍵盤を叩いた。ポーン、と一音鳴る。きちんと調律されているピアノ。ベヒシュタイン社のコンサートグランドだ。椅子に座ると、両手を鍵盤に置いた。この瞬間が、ナターリヤは一番好きだった。すう、と息を吸い、鍵盤を叩く。フォルテシモ。アンダンテ。アレグロ。モーツァルト、ピアノソナタ第6番。昨日聞いた曲だった。どんなに頑張っても、あの音は出せなかった。
演奏中に、音楽室の扉が開かれる。昨日の男だった。ちょうど第1楽章が終わったところだったので、ナターリヤは手を休める。
「何の用だ。」
「いえ、昨日きちんとご挨拶できなかったので。」
少し気になっていまして、と男はゆっくりとピアノに向かってきた。ナターリヤの横に立つと、右手を差し出す。
「初めまして。本田菊と申します。」
ナターリヤは少し嫌そうな顔をして、迷った。けれど、しかたなく自分も右手を差し出す。
「ナターリヤ・アルロフスカヤ・・・。」
思ったよりも大きい、武骨な手が、ナターリヤの細く、小さな手を包んだ。
「・・・・小さい・・・。」
本田、と名乗った男は、ナターリヤの手を調べるように触り、まじまじと観察した。
「さ、触るな!っ!見るな!」
ぱ、と手を離して胸の前でぎゅうと握る。こんなにじっくりと手を見られたのは初めてだった。
「すみません。先程の演奏を、その小さな手でしていたかと思うと・・・。」
ナターリヤはピアノの鍵盤蓋を閉じ、本田菊の方に身体を向ける。
「お前、編入してきた奴だろう。」
「おや、知っていたのですか。」
正確に言うとナタ―リヤは本田菊、という名前しか知らなかったのだが、昨日演奏していた男が編入生だろうとは察しがついていた。在学する生徒の中で、あれほど弾ける人物を、ナターリヤは知らなかった。
「それで、何故昨日は泣きながらお帰りになったのですか?」
本田は少し意地悪そうに聞いた。演奏を聞いて泣いたということはわかっているだろうに。
「・・・泣いてない。あれは汗だ。」
ナターリヤはふいと顔を背けた。ばればれの嘘を真顔でついたナターリヤを見て、本田はぷっと吹き出した。
「笑うな!」
「す、すみません。・・・お詫びに、何か弾きましょうか?」
「・・・・サーカスギャロップ。」
ナターリヤが弾け、と言ったのはカナダのピアニスト、マルク=アンドレ・アムランが作曲したピアノ曲である。自動演奏ピアノを想定して作曲されたものなので、指が10本しかない人間には弾くことが不可能とされている。
「ぢゅーん\(^o^)/じゃないですか!殺す気ですか!」
驚いて叫ぶ本田を見て、ナターリヤは口元を少し緩ませた。
「お前なんか死ねばいいんだ」
「な、なんてことを言うんですか!傷つきますよ!」
「・・・リスト。」
ぽつりと呟いた言葉を、本田は聞き逃さなかった。
「わかりました。ではパガニーニの・・・ラ・カンパネルラでよろしいですか?」
「・・・好きにしろ。」
フランツ・リスト、「パガニーニによる大練習曲」の第3番嬰ト短調。超絶技巧を必要とする超難曲である。
天賦の才。ナターリヤはごくりと唾を飲み込んだ。神様に選ばれた指。ナターリヤがどうしても届かない、あこがれ続けたもの。目の前の男は、易々と弾いてみせる。誰にも負けないと、思っていたのに。悔しかった。悔しくて、悔しくて。悔しかった。
演奏が終わると、さすがの本田もふう、と息をついた。ナターリヤの瞳にはまた涙が浮かんでいる。
「ど、どうでしたか?」
不安そうに聞く本田に、ナターリヤは瞳をゴシゴシ擦ってから、ふんと鼻を鳴らした。びし、と指を指す。
「私はお前に追いついてみせる!いつか、絶対にだ!」
突然叩きつけられた挑戦状に、本田は目を丸くした。しかしすぐににこりと笑う。
「ええ、楽しみに待っていますよ。」
「~~~~~~っ!ばーか!」
ナターリヤは一言だけ吐き捨てると、脱兎のごとく音楽室から出て行った。その場に残った本田は、彼女の涙を思い出しながら鍵盤に触れる。ポーンと高らかな音が、広い音楽室に響き渡った。
「『運命は恋するものに』・・・なんて、ね・・・。」
二人に芽生えた小さな蕾を、今はまだ、知らない。