川のみどりに彼のしろ
今日のような、薄青い積乱雲が空の低いところに延々と連なっている日だった。父の実家は信州にあり、毎年お盆になると家族で連れ立って高速にのった。高二の夏である。おそらく来年は受験のために家で留守番をすることになるだろう。大学に通うようになって兄はすっかりそういう家族行事と疎遠になってしまった。自分もそうなるだろうかと思いながら真田は空を仰ぐ。長野の空は、神奈川のそれと比べて少しだけ青が濃い。
実家に荷物を置き、畑に行っているという祖父に挨拶をしに行った帰りだった。緑陰の濃い川沿いの道を歩く。夕食までに冷やしておくようにと小ぶりのスイカと、網に入れた桃をいくつか持たされていた。持てると安請け合いしたはいいが、家までの距離と気温を舐めていた。少し歩いただけで額に背中に汗がふきだし、ぐっしょりとTシャツを濡らす。
半ばまで道のりを消費したあたり、川岸に降りられる石の階段を見つけた。少し休んでいこうと思う。なんなら川の水で冷やしておいてもいいのではないか。そう思うとそれが一番いいように思われて、サンダルがアスファルトを叩く音が高くなる。大きな岩がごつごつと並んだ合間に、川遊びをするにはちょうどいいたまりがある。薄いサンダルの底で尖った石を踏み、そのあたりに持たされたスイカと桃を石で囲って水に沈めた。流れの早い渓流で、この気温だというのに水温はきりりと低い。網の中に桃は五つ入っていたが、ひとつぐらいだったら食べてもいいだろうと真田は思う。そうしながら疲労した足の筋肉を川に沈めた。彼岸は山肌で、青々とした葉が川面に覆いかぶさっている。流木に水流が引っかかって渦をつくった。ざぶざぶと流れをかきわけ膝下まで水につかる。Tシャツを脱いで水に浸し、ぎゅっと絞って汗まみれのからだを拭いた。すると、目の先の川面に白いものがうつる。ぎょっとして、思わず足を踏み外した。たちまち目の前が水に沈む。あ、のかたちに大きく開いた口から冷たい水が流れ込んで気道を塞いだ。鼻から口から耳から、全ての穴から水が入り込んで痛覚が鋭敏になる。それまで脅威でもなんでもなかった水の流れが粘度を濃くして真田のからだに絡まった。暴れる手足に何重にも絡みついて身動きを取れなくす。水中から覗く水面に陽がきらきらと眩しい。他人事のようにそう思った瞬間、強い力で腕を引っ張られた。
たちまち世界の上下が確かになる。真田はしっかりとサンダルで川底を踏みしめて、大きく噎せた。意図せず涙が浮かぶ。体液と川の水でぐしょぐしょになった顔をさらして、真田は大きく鼻をすすりあげた。その奥が痛い。大きく息をしながら呼吸を整えていると、いまだに自分の手首を掴んでいるものがある。それがおぼれた自分を助けたのだと思い至り、真田は瞬きをしながら顔を上げた。鮮やかな白が目を射た。
真田と同じように上半身をさらした男は金髪から水滴を散らせて、ぎょっとした顔で真田を見つめていた。瞬きひとつせずじっと真田を覗きこんでくる青い目がなにやら面映ゆく、真田は中途半端に開けた口から意味をなさない音を一つ二つ吐き出した。唾を飲む。部活焼けをした真田と違い、男の半身は陽にすらあてたことのないように白く澄んでいた。髪の色も目の色もなにもかも色が薄い。そう思う。ただ右目にあてた眼帯だけが重たく沈んだ。
どう、も、ありがとうございました。やっとのことでそれだけ呟くと、はっとしたように男は真田を掴んでいた手を離す。そうして、乱暴に水をかきわけて岸に戻って行ってしまう。慌ててその背中を追った。背格好も歳も同じぐらいだ。このあたりの同学年の連中とは顔馴染みだが、彼は今まで見たことがなかった。あ、あの、どこの家の……、某は真田の、隆爺のところの孫でござるが。さっさと濡れた背中に布をかぶせているのに向かって叫ぶ。急流をかきわけやっとのことで岸に上がると、男は既に身支度を整えたところであった。濡れた髪を振り回して水滴を散らす。焼けた石に飛び散って、それもすぐに蒸発してしまう。男は応えない。振り向きもせず岸を歩き、石の階段を登ろうとする。もしかしたら最近このあたりに引っ越してきて、このあたりにまだ慣れていないのかもしれない。日焼けのしていない肌や、雛染みていない様子が真田にそう確信させた。
慌てて、先程囲ったたまりに座り込む。網の中の桃を一つ取り出して、もう一度、あの!と叫んだ。男がようやく振り向く。険しい表情はそのままだ。これ、よろしかったら!言って、手の中の桃を投げた。放物線を描いて桃は男の手の中におさまる。彼はしばらくぎょっとした顔で桃を見つめていたが、やがて真田を見返すことなく石の階段を登っていった。スイカと網を手に下げ、慌てて真田もまた階段を登る。サンダルが水を吸ってびちゃびちゃと音をたてた。やっとのことでからだを持ち上げ、陽の照るアスファルトを見渡すが、彼の背中はもうどこにもいなくなっている。蝉の音がじりじりと体表面の温度を上げた。
そういうことを、教養棟の屋上でコーラを飲みながら思い出していた。二年経つ。薄青かった雲は次第に黄色みを帯び始めている。ペットボトルを覆っていた水滴もすっかり乾いてしまっていた。温くなった炭酸を喉の奥に流し込みながら、喘ぐように息をした。持たれたフェンスがじりじりと腕を焼く。衰えを知らない陽射しは真っ向から真田の額を照らした。いっとき、ぎゅっとまぶたを閉じた。瞼の裏に、キラキラと光る。
乳くせーガキだと思ってたのに。唐突に背後から声がした。首を巡らせると、記憶の姿そのままのあの男が立っている。はっと真田は息を飲んだ。白皙に重たい眼帯と、細い金の髪。身につけているゆったりとした着物は日本のものではない。だが何故だかそれが彼にはしっくりきた。なにか、この世ならざるものの気配がした。一つ重たい唾を飲む。それはあの夏からずっと真田が思っていたことだった。祖父母、近所の顔馴染みの誰に訊いても、あの男のことは判らなかった。幽霊だと断じるには彼の肉の感触は確か過ぎた。恐る恐る真田はからだを返す。……今、そなたのことを思い出しており申した。男はそれには答えず、首を軽く振る。そうして真田を見つめてくる目の、険しい光。
あのときの、桃の礼をお前にやろうか。言って、男は一歩一歩ゆっくり真田に近づいてくる。そうするにつれてなにかを耐えるような顔になる。礼? 真田がそう鸚鵡返しに呟くと、それが礼になるかはお前次第だが、そう言って、男は真田の足先に額づいた。ちょ、なにを。男は真田の狼狽に頓着しない。…… 御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申しあげる。早口にそう言って寄越し、首を折って真田を見上げた。許す、と。え?いいから、許すって言え。彼は吐き捨てるようにそう寄越して、コンクリートに金の髪を散らせた。
作品名:川のみどりに彼のしろ 作家名:いしかわ