奇跡の鐘の音
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あの時、太古の昔、お前の手を掴んでいれば。何もかも投げ捨て、お前だけを選んでいたのなら。共に堕ち、二度と神の愛に触れることが出来なくなっても、きっと後悔などしなかっただろう。
だが、私はお前の手を取れず、堕ちることも出来ず、そして後悔すら恐ろしくて出来ないまま、ただ神の命に従い続けている。
時折夢にまで見る最後の瞬間、お前の名すら呼べず、私は生き続けている。翼をもぎ取られた傷跡だけが、お前の存在を覚えているように痛み続けた。
誰かを大切だ、愛おしいという気持ちを隠さずに真っ直ぐ己が進む道を定めた鴉を前に、サリエルは感嘆を抑えて溜息をついた。
天使の力を封じられながら、それでも悪魔を守ろうとする純粋な意志こそ、本来天使が持つべきものではないのかと、サリエルは傷つき眠る鴉の顔を見下ろした。
「愚かだと、お前も気付くときが来るのか。それとも、お前は道を突き進むのか、鴉」
サリエルは部屋を立ち去った。いつまでも鴉の痛ましい姿を見ていられなかった。これからどうするかを考えなければならない。
主天使として、鴉の上司として神に忠誠を誓うのなら、道を踏み外そうとする鴉を天界に封じ込め、二度とあの悪魔との逢瀬を遮らなければならない。それだけ、この二人は危険だ。何万年と続く天使と悪魔の境界を、互いに崩そうとしている。そんなこと、許されるはずが無い。
サリエルは煙草のケースを手に取ろうとして、やめた。本数の少ないケースを握りつぶし、窓を見る。地上の空は、天界には及ばないものの、独特の美しさがあった。
心の動揺が無いといえば、嘘になる。あの悪魔「白鷺」を浚った者達には大公ベールゼブブの部下の証があった。もう呼べない名前だ。関わることも無いと決め、逃げていた存在がこんなにも近くにある。
「…………っ」
背中の傷が痛んだ。皮膚はもう繋がり、痛みなど感じないはずが、時折こうしてサリエルを苦しめる。まるで昨日のことのように思い出せる最後の瞬間。サリエルは苦痛の声を押し殺し、背を丸めた。
「っは……、っ」
痛みを和らげるために、翼が広がった。部屋一杯に白く大きな羽が満ちる。それでも苦痛は消えなかった。
「……これは、私の罪だと思うか?」