奇跡の鐘の音
誰に問うわけでもなく、サリエルは膝をついた。背を掻き毟りたい衝動を抑えるたびに、羽が散った。現実ではない痛みは容易く消えようとはしない。
「お前の名を、呼ぶことすら許されんとはな……」
堕ちた天使の名は不吉とされている。ただ不吉という理由だけではなく、サリエルはベールゼブブの名を、あの時から一度も口にしてはいない。
口にしてしまえば、神を崇拝する天使としての自分が崩れてしまいそうだった。
名前も、想いも、何もかもサリエルは封じている。今サリエルにあるものは、絶対的な神への愛を求め命に従い働くことのみだった。個人の意志など、意味を持たない。
胸が震える。サリエルは翼を広げ、震える羽先を床に押し付け、神の愛を誓った。
「神よ……」
許されることの無い罪を胸に抱きながら、サリエルは痛みが消え去るまで神に祈り続けた。
「まだ起きん方が良い」
愛しい名を呼び、悪夢から呼び覚まされた鴉は、サリエルの姿を見るなり、苦しげに目を伏せた。
「安心しろ。ここは私の私室だ。追ってくるものはいない」
サリエル自身が鴉を罰する立場にあるということが鴉も良くわかっているのか、すぐに立ち上がろうとする。そんなにも神に逆らいたいのかと、サリエルは眉を顰めた。
「行くのか?」
「……行かねば、なりません」
「あの悪魔の為に地獄に行こうとするか、鴉。天使の地位を棄ててまで?」
「堕ちるつもりはありません。俺は、あの人を救いたい」
傷ついたままの体を鴉は起き上がらせ、痛みを堪えた。そんな体で何が出来るのか、天使の力はまだ封じられたままだ。このままでは、下級の悪魔にすら太刀打ち出来ない。
それでも鴉は求め、救うという。
「お前は、あの者を救うという意味を、真面目に考えているのか?神を裏切る行為だ」
「……それでも、俺は行きますよ。でなけりゃ俺は俺でいられなくなる。俺は、白鷺を救いたい」
「止めても無駄なようだな」
「すみません。俺は、……この想いを止められない。まだはっきりとした形にならないこの気持ちを。正体を、知りたい」
サリエルは意志の固い部下の横顔を見詰め、背の痛みを感じた。神の恩恵を受けながら、裏切りに身を落とそうとする姿が、愛おしいあの背を重なる。
いや、あれは裏切りではなかった。純粋な欲だ。神は天使の欲望を許さない。サリエルは意を決した。
「支部長?」