少年への献花
前編
夕暮れの並木道を、季節感を無視した黒コートを着た男と、夏らしい青いTシャツ姿の少年が並んで歩いている。
歩調はだらだらと緩やかで、真昼よりは多少ましながらまだまだ暑い気温の中を、少年のほうはともかくとして男のほうは見ているだけでも暑いというのに、それでもゆっくりとゆっくりと歩いていく。
河に沿って、ずーっと一本まっすぐな道だった。
「そういえば、このへんは春になると桜が咲いて、花見客で一杯になるんだよ」
コートの男が思い出したようにそう告げると、少年はとなりで、へえ、と目を輝かせ、川沿いの道をなぞるように植えられている並木を目で追った。
「これ、全部桜なんですか?」
少し高く、耳に心地よい少年の声に、男は無造作に頷く。
「桜の下で花見ってさあ、俗っぽいよね。日本人は好きだけどさそういうの。なんていうか、低俗。静かな中で花見できるっていうんならまだしも、あんな酔っ払いばっかりな場所で花を見て、何が楽しいのかね」
あきれたように言う男に、少年が苦笑を零す。
「そんな、季節柄っていうか、風物詩ですよ。僕も桜って結構好きですし」
「君もあんな煩いところで花見したい派なの?それは意外だな」
軽く眉を上げた男に、少年はそうですね、と少し考えるように言葉を切って、それからもう一度川沿いに桜並木を目でなぞった。
「煩いのは好きじゃないですけど・・・でも、見事でしょうね、これ全部が満開になったら」
見てみたいです、と無邪気に笑う。その笑顔を見詰めて、男ははて、それほど見事だっただろうかと記憶の中の景色を呼び起こした。
男は特に桜に関して好きだとか嫌いだとか考えたことはない。その花は学校を連想して、どうも複雑な気持を抱かせることもあるし、だいたい毛虫がたくさんいるので木陰で気持よく昼寝するにも適さない。咲いたと思ったらぼろぼろと威勢よく散っていく薄紅は、男の黒服に絡まると目立つ上になかなか取れないので、むしろ邪魔かもしれない。
でも、少年が好きだというのなら、それなりの魅力があるのかもしれない。そんなふうに男は思う。
少年は一見とても地味で目立たないけれど、その内側に内包する色彩はとても色鮮やかで、全ての色を兼ね備えているかのようにさえ思えた。男の世界はそれまで決してカラフルではなかったので、少年のいる風景の鮮やかさには、時折はっと目を奪われることがある。
その少年が桜の下に立つならば、それは、少年のいる他の風景と同じように色彩豊かに男に訴えるかもしれない。ならば、桜を美しいと思うことも、ありえるだろう。
「・・・そういえば今年は、花見どころじゃなかったな」
少年は中学生に間違えられそうな童顔だったが、これでも一応高校2年生だった。その目に少しの緊張を滲ませて、男のほうを振り返る。
「・・・臨也さん。来年の春、来ませんか」
普段より少し固い声の響きに、男はおや、と目を見開いた。この少年がこんな風に男を誘うことはとても珍しく、貴重なことだったからだ。
「花見に?」
問い直せば、夕暮れの鮮やかな赤に染まった少年の口元が、ぎこちなく笑みを作る。
「・・・無理にとは、言いませんけど」
「そうだねえ・・・」
男は、少年が自分に向ける感情の意味に気づいていた。それをわずらわしいとは思わない。男は人間全部を愛しているから、勿論当然少年を愛していたし、その中でも彼はお気に入りの人間だった。
男は少年の巻き起こす予測不可能な言動を楽しんでいた。都合のいい、使い勝手のいい盤上の駒であり、時折予想以上のことをやってのける優秀なジョーカー。時折信じられないほど愚鈍だが、そんなところも悪くない。少なくともこのクソ暑い中を散歩に付き合ってやれるくらいには、少年が好ましい。
男は考えた。これはデートのお誘いと言うやつだろうか、と。
少年は返事を静かに待っている。決して、急かそうとしない。それがすこし苛々する。
俺のことを好きならさっさとそう言えばいいのに、と思う。男は決してそういう意味で少年を見ていないが、少年が恋愛感情的な意味で男を見ていることは明白だった。その思いを利用して、戯れに口付けを交わしたことさえあったけれど、それでも少年はただ困ったように笑って、あまりからかわないでくださいと、小さく言うだけだった。
少年が好きですと告げてきたなら、男は思い切りそれを笑って、優しく包み込むように同情を投げて、それからこっぴどく振る予定だった。泣こうがわめこうがそれでいい。人間らしくて実に愚かではないか。
けれども実際問題、少年は決してそれを男に告げようとしなかった。いい加減にじれったくなってる。だからそのときもほんの意地悪のつもりで、男は無造作に告げたのだった。
「男同士で花見って、寒くない?」
傷つけばいいと思ったのに、少年は首をかしげて困ったように眉をよせ、そうでしょうかと言うだけだった。
なんだ、つまらない。
「・・・まあ、気が向いたらね」
付け足すように軽く肯定する。実際きっと、春になって誘われたなら男は花見に付き合うだろうなと考えた。少年はそれほどまでに、男にとっては重要な手駒なのだから。
断言しなかったのは、来年の春まで彼が面白いままでいてくれるだろうかと言う微かな危惧のために過ぎない。男は何時だって少年を切り捨てることができると信じていた。それが明日か一週間後か一年後か、十年後になるかは分からなかったけれど。
「そうですか」
答えた少年の声はあまりにもいつもどおりで、だから男は気づくことさえなかった。
悲しげに表情をゆがめた少年の、一瞬の嘆きにも、少年の思いにも、おそらくは自分自身の気持にさえ、全てに背を向けたまま男はひらりと道をそれる。
「じゃあ、またね帝人君」
振り返りもせず手を振る男を、少年はどんな気持で見送ったのだろう。
今となっては、知る術もなく。
そして少年はその日のうちに、二度と帰らぬ人と、なった。