Half Moon , Day Moon
僕は親の顔を知らない。
物心ついた時には既に、僕は世界に一人で投げ出されていた。
育ての親である神父様は僕を可愛がってくれたけれど、それは僕一人に向けられた愛情じゃない。等しく親を知らない子供たちに、平等に与えられた代物だ。
愛されたことのない僕は、きっと愛することも、本当には理解していない。それは人間として、多分不完全な存在だ。
ずっと僕は、自分をそんな風に思っていた。
「珍しい話じゃねぇさ」
ジェットはそう言うと、紫色の煙を口から吐き出す。指先で煙草を弄ぶ仕草が、やけに大人びて見えた。
「スラムにゃ、そんなガキはゴマンと居たぜ。俺も親父の面なんて知らねぇしよ。ま、知りたいとも思わねぇけどさ。お袋は……居たには居たけど、ガキん頃に別れたっきりで、もうどんなんだったか忘れちまったよ」
彼が送って来た人生は、多分僕より激しいもので、想像以上の厳しさがあって。けれど彼は、そんな世界で生きてきた影など微塵も見せない。
ジェットと僕は、かつては何処か相入れない関係だった。どちらかと言えばジェットが、一方的に僕を避けている感じがあって、嫌われていると思ったから、僕も疎遠になっていた。
けれど――共に生死の迫間を抜けた今、僕たちは多くのことを語り合う間になった。
そうして暫くジェットは、味わう風情で黙って煙草をふかしてから、やがて僕に向き直ると、僅かに笑みを含んだ優しい声で問いかける。
「自分が不幸に思えるか?」
「……わからない」
それが正直な気持ちだ。
環境を恨んだことが無いと言えば嘘になる。だけど僕は親のいる“まともな”状態を知らないから、果たしてそれが自分の思う程に、満ち足りたものなのかを判別できない。
そんな僕に、彼は静かに言った。
「幸も不幸も、相対的なモノさ。何を基準にするかで、全く変わる。満ち欠けを繰り返す月が、本当の形は一つだってことと、それは多分同じなんだ」
窓辺に腰掛けた彼は、視線を僕から外へと移す。僕もベッドの上で、同じように首を巡らした。青い空を切り取るように、真昼の白い月が浮かんでいるのが遠くに見えた。
「こんな化け物みたいな体にさせられた――成る程、それは不幸だよな。だけど、力を手にしたと思えば、幸福だ。過去に繋がる全てを失ったのが悲しみなら、未来に続く人間関係を得たことは喜びさ。立ってる場所は同じなのに、ちょっと見方を変えただけで、まるで天秤の両端みたいに、全く別の感情になっちまう」
その月を見つめながら、独り言みたいに呟いていたジェットは、飲みさしのコーラに煙草を落とす。そして再び僕に向き直ると、小さな笑みを浮かべた。
「で――結局どっちだと思う?」
「君は――」
「意外とモノ考えてんだろ?」
僕の言葉を遮って言うと、彼はにやりと笑ってみせた。僕は、それ程驚いた顔をしていたのだろうか。そうだとすれば、それは彼にとって失礼な話だろう。
けれど、ジェットは構う風もなく、笑ったままで言葉を繋いだ。
「正直――昔はンなこと、考えてもみなかったさ。ま、世界中の不幸を一人で背負ってるみたいな面した、大馬鹿野郎に惚れちまったのが運の尽き、なんだろうな。あいつは余計なコトごちゃごちゃ考え過ぎて、勝手に思考の迷宮入りをしちまうから、俺が出口を見つけてやんなきゃなんねぇ。迷惑な話さ」
嬉しそうに言った彼は「おっと」と唇に指を立て、おどけた顔をして見せた。
「内緒にしとけよ? あの旦那、あれでて結構プライドが高いんだ。俺がンなコト考えてるなんて知ったら、また拗ねちまうからな」
その時だ。
「失礼。あの馬鹿が邪魔してないか?」
ノックの音と共にドアが開き、004が顔を覗かせた。そしてジェットの姿を見止めて、軽く睨みつける表情になる。
「また、うろうろ歩き回ってたな。博士に、安静にしてろ、って言われてるだろ」
僕に軽く目で挨拶をしながら、彼は部屋に入ると、ジェットの側に歩み寄る。
「だいじょーぶだって。もう、殆ど普通に動けるんだし」
「駄目だ」
うっとうしそうに――けれど、少し嬉しそうに――顔の横で手をひらひらさせるジェットに、004は更に顔を顰めて見せた。
「僕が引き留めたんだよ、004」
野暮は承知で、僕は慌てて間に入る。このまま一方的にジェットが責められるのは、理不尽に思えたのだ。
「暇だったから、彼に話し相手になってもらってたんだ」
「それでも来たのは、こいつの方だろ? なら、やっぱりこいつが悪い」
その言葉に、ジェットは呆れた顔になる。
「あんたは俺の保護者かっつーの」
「そのつもりだが?」
片目を細める004に、ジェットは小さく溜め息を吐いた。
「……ったく、とんだ保護者だぜ。小うるせーわ、ヤラシい真似するわ……」
「五月蝿く言うのは、お前が大人しく言うことを聞かないからだ」
それに、と004は、にやりと笑って彼の顔を覗き込む。
「そのイヤラシいコトを、ねだるのは大概お前だろう?」
その言葉に、ジェットは言葉を失う。僅かに頬が染まるのが解った。
「ほら、部屋に戻るぞ」
「へいへい」
004に急かされて、ジェットは不詳不精の風情で立ち上がると、僕にウィンクを投げて部屋を後にした。その後を追い立てながらついていく004は、僕に片手を上げて挨拶をした。
そして――二人が出ていった部屋は、急に温度が下がったような気がして、僕は寂しくなる。
ふとテーブルを見れば、ジェットの持っていた煙草の箱が、ライターと並んで取り残されていた。それは確か、004の愛飲している銘柄で、だから僕は、なんで彼が煙草を吸う時に愛しそうな表情をするのかが解った気がした。
僕はベッドから抜け出して、その箱を手に取った。中から一本抜くと唇に挟む。火を付けて吸い込んでみたが、思わずむせた。やっぱりジェットのようにはいかない。
咳き込みながら、それでも僕は、もう一度それを吸ってみる。そして窓辺に寄り掛かりながら、空を見上げた。さっきまでそこに居たジェットが、そうしたように。
空に浮かぶ、白い半月。
本当は、解っている。
欲しいのは、血の繋がりなんかじゃなくて、ジェットと004のように、言葉も必要としない程の、心の絆。生まれた国も、育った環境も、何もかもを突き抜けた、魂の片割れ。
何時か、僕も出会うのだろうか。
僕を――僕だけを、無条件に愛してくれる人と。僕が、無条件に信じられる人と。
「調子はどう?」
その時、再び軽いノックの音がして、金色の髪を揺らしながら、フランソワーズが顔を見せた。その緑の瞳が軽く見開かれる。
「あら――ジョーが煙草を吸うなんて、知らなかったわ」
「遊んで見ただけだよ」
何故か僕は悪戯を見咎められた子供のように慌てて、ジェットが置いていってしまった缶に煙草を落とした。彼女は小さく笑って、僕の側に歩み寄る。
「そんな悪さが出来るなら、もう十分元気みたいね。でも、空き缶を灰皿代わりにするのは、感心しないけど?」
コーラの缶を軽く指先で弾く。その優しい声と、美しい横顔に、僕の胸は何故か高鳴る。そして、僕は思い出す。荒んだ闘いの日々の中、常に彼女は隣に居た。彼女の笑顔が、安らぎをくれた。
物心ついた時には既に、僕は世界に一人で投げ出されていた。
育ての親である神父様は僕を可愛がってくれたけれど、それは僕一人に向けられた愛情じゃない。等しく親を知らない子供たちに、平等に与えられた代物だ。
愛されたことのない僕は、きっと愛することも、本当には理解していない。それは人間として、多分不完全な存在だ。
ずっと僕は、自分をそんな風に思っていた。
「珍しい話じゃねぇさ」
ジェットはそう言うと、紫色の煙を口から吐き出す。指先で煙草を弄ぶ仕草が、やけに大人びて見えた。
「スラムにゃ、そんなガキはゴマンと居たぜ。俺も親父の面なんて知らねぇしよ。ま、知りたいとも思わねぇけどさ。お袋は……居たには居たけど、ガキん頃に別れたっきりで、もうどんなんだったか忘れちまったよ」
彼が送って来た人生は、多分僕より激しいもので、想像以上の厳しさがあって。けれど彼は、そんな世界で生きてきた影など微塵も見せない。
ジェットと僕は、かつては何処か相入れない関係だった。どちらかと言えばジェットが、一方的に僕を避けている感じがあって、嫌われていると思ったから、僕も疎遠になっていた。
けれど――共に生死の迫間を抜けた今、僕たちは多くのことを語り合う間になった。
そうして暫くジェットは、味わう風情で黙って煙草をふかしてから、やがて僕に向き直ると、僅かに笑みを含んだ優しい声で問いかける。
「自分が不幸に思えるか?」
「……わからない」
それが正直な気持ちだ。
環境を恨んだことが無いと言えば嘘になる。だけど僕は親のいる“まともな”状態を知らないから、果たしてそれが自分の思う程に、満ち足りたものなのかを判別できない。
そんな僕に、彼は静かに言った。
「幸も不幸も、相対的なモノさ。何を基準にするかで、全く変わる。満ち欠けを繰り返す月が、本当の形は一つだってことと、それは多分同じなんだ」
窓辺に腰掛けた彼は、視線を僕から外へと移す。僕もベッドの上で、同じように首を巡らした。青い空を切り取るように、真昼の白い月が浮かんでいるのが遠くに見えた。
「こんな化け物みたいな体にさせられた――成る程、それは不幸だよな。だけど、力を手にしたと思えば、幸福だ。過去に繋がる全てを失ったのが悲しみなら、未来に続く人間関係を得たことは喜びさ。立ってる場所は同じなのに、ちょっと見方を変えただけで、まるで天秤の両端みたいに、全く別の感情になっちまう」
その月を見つめながら、独り言みたいに呟いていたジェットは、飲みさしのコーラに煙草を落とす。そして再び僕に向き直ると、小さな笑みを浮かべた。
「で――結局どっちだと思う?」
「君は――」
「意外とモノ考えてんだろ?」
僕の言葉を遮って言うと、彼はにやりと笑ってみせた。僕は、それ程驚いた顔をしていたのだろうか。そうだとすれば、それは彼にとって失礼な話だろう。
けれど、ジェットは構う風もなく、笑ったままで言葉を繋いだ。
「正直――昔はンなこと、考えてもみなかったさ。ま、世界中の不幸を一人で背負ってるみたいな面した、大馬鹿野郎に惚れちまったのが運の尽き、なんだろうな。あいつは余計なコトごちゃごちゃ考え過ぎて、勝手に思考の迷宮入りをしちまうから、俺が出口を見つけてやんなきゃなんねぇ。迷惑な話さ」
嬉しそうに言った彼は「おっと」と唇に指を立て、おどけた顔をして見せた。
「内緒にしとけよ? あの旦那、あれでて結構プライドが高いんだ。俺がンなコト考えてるなんて知ったら、また拗ねちまうからな」
その時だ。
「失礼。あの馬鹿が邪魔してないか?」
ノックの音と共にドアが開き、004が顔を覗かせた。そしてジェットの姿を見止めて、軽く睨みつける表情になる。
「また、うろうろ歩き回ってたな。博士に、安静にしてろ、って言われてるだろ」
僕に軽く目で挨拶をしながら、彼は部屋に入ると、ジェットの側に歩み寄る。
「だいじょーぶだって。もう、殆ど普通に動けるんだし」
「駄目だ」
うっとうしそうに――けれど、少し嬉しそうに――顔の横で手をひらひらさせるジェットに、004は更に顔を顰めて見せた。
「僕が引き留めたんだよ、004」
野暮は承知で、僕は慌てて間に入る。このまま一方的にジェットが責められるのは、理不尽に思えたのだ。
「暇だったから、彼に話し相手になってもらってたんだ」
「それでも来たのは、こいつの方だろ? なら、やっぱりこいつが悪い」
その言葉に、ジェットは呆れた顔になる。
「あんたは俺の保護者かっつーの」
「そのつもりだが?」
片目を細める004に、ジェットは小さく溜め息を吐いた。
「……ったく、とんだ保護者だぜ。小うるせーわ、ヤラシい真似するわ……」
「五月蝿く言うのは、お前が大人しく言うことを聞かないからだ」
それに、と004は、にやりと笑って彼の顔を覗き込む。
「そのイヤラシいコトを、ねだるのは大概お前だろう?」
その言葉に、ジェットは言葉を失う。僅かに頬が染まるのが解った。
「ほら、部屋に戻るぞ」
「へいへい」
004に急かされて、ジェットは不詳不精の風情で立ち上がると、僕にウィンクを投げて部屋を後にした。その後を追い立てながらついていく004は、僕に片手を上げて挨拶をした。
そして――二人が出ていった部屋は、急に温度が下がったような気がして、僕は寂しくなる。
ふとテーブルを見れば、ジェットの持っていた煙草の箱が、ライターと並んで取り残されていた。それは確か、004の愛飲している銘柄で、だから僕は、なんで彼が煙草を吸う時に愛しそうな表情をするのかが解った気がした。
僕はベッドから抜け出して、その箱を手に取った。中から一本抜くと唇に挟む。火を付けて吸い込んでみたが、思わずむせた。やっぱりジェットのようにはいかない。
咳き込みながら、それでも僕は、もう一度それを吸ってみる。そして窓辺に寄り掛かりながら、空を見上げた。さっきまでそこに居たジェットが、そうしたように。
空に浮かぶ、白い半月。
本当は、解っている。
欲しいのは、血の繋がりなんかじゃなくて、ジェットと004のように、言葉も必要としない程の、心の絆。生まれた国も、育った環境も、何もかもを突き抜けた、魂の片割れ。
何時か、僕も出会うのだろうか。
僕を――僕だけを、無条件に愛してくれる人と。僕が、無条件に信じられる人と。
「調子はどう?」
その時、再び軽いノックの音がして、金色の髪を揺らしながら、フランソワーズが顔を見せた。その緑の瞳が軽く見開かれる。
「あら――ジョーが煙草を吸うなんて、知らなかったわ」
「遊んで見ただけだよ」
何故か僕は悪戯を見咎められた子供のように慌てて、ジェットが置いていってしまった缶に煙草を落とした。彼女は小さく笑って、僕の側に歩み寄る。
「そんな悪さが出来るなら、もう十分元気みたいね。でも、空き缶を灰皿代わりにするのは、感心しないけど?」
コーラの缶を軽く指先で弾く。その優しい声と、美しい横顔に、僕の胸は何故か高鳴る。そして、僕は思い出す。荒んだ闘いの日々の中、常に彼女は隣に居た。彼女の笑顔が、安らぎをくれた。
作品名:Half Moon , Day Moon 作家名:BOMBER☆松永