護りの風
リュナンが今語ったのは十中八九、真の紋章が見せる未来……悪夢だろう。
ルックは物心がついた時には既に風の紋章がその身に宿っていた。
何年か過ぎて、風の紋章は歳若い宿主に悪夢を見せた。
その悪夢は、リュナンが見たそれとは違うものだが、きっとリュナンも自分が味わった恐怖に直面したのだろう。
だから、真の紋章を宿しながら成長しているルックに言いようの無い不安を抱いたのだろう。
近づきたくなかった石版へ来る程に、いてもたってもいられずに…。
――かけがえの無い友であるがゆえに、恐かったのだ――
「君は馬鹿だね。僕が紋章そのものなわけ無いのに」
ルックはそう言いながら、リュナンに体を向けると右手の人差し指の先を彼の額に触れさせた。
「ルック?」
「動かないで」
突然のルックの行動に小さく驚いたリュナンを軽く制し、ルックは人差し指に魔力を集中させた。
淡い光がリュナンの額に広がり、やがてその光は額の中へ吸い込まれるかの様に消えていった。
「どう? さっきの夢、まだ覚えてる?」
人差し指をリュナンの額から遠ざけながら、そう問うルック。
リュナンは、問われるままに夢を思い出してみた。
…が、リュナンの記憶には悪夢は少しも存在してなかった。
嘘のような現実に、リュナンはただ首を横に振ることしか出来なかった。
そんなリュナンに、ルックは僅かな微笑みを作った。
「見よう見真似だったけど、どうやら成功したようだね」
「何したんだ? ルック」
「今、夢に封印をしかけた。
一時の気休めでしかないけどね。僕が夢を見て怯えた時、レックナート様はいつもこうやって夢に封印を施してくれた。
でも、夢はそもそも紋章がみせるものだから、紋章が主に夢を見せる時季が来たと判断してしまえば、封印など容易くやぶられる。
だから一時的な効力しか無いから、またいつ夢をみさせられるかは分からないよ」
「ルックも夢を見てたのか…いつも……そんなに多く」
既に覚えていない悪夢の余韻をそれなりに感じながら、リュナンはルックを見た。
今でこそ自分と大して変わらない背格好になったルックだが、歳は6つも離れている。
そんな彼は、自分よりも遥かに多く悪夢を見ていたと言う。
そして、その都度封印してきた。
その少年はゆっくりと瞳を閉じて、こう言った。
「でも、封印を繰り返していくうちに、大雑把な内容だけは記憶に残るようになってしまったけどね。
いつかきっと、封印なんて効かなくなってしまうだろう。
その時は、紋章が見せるその夢と正面から向き合わなくてはならないだろうね。
今までせき止めてきた分、どこまで大きな反動が来るか……」
(その時僕は…どこまで何をどれだけ守り救うことが出来るだろうか…)
瞳を閉じたままのルックを、リュナンはただ、見つめていた。
いつかは悪夢と正面から向き合わなくてはならない。
そう遠くない未来に…。
リュナンは、今はもう記憶に無い悪夢に対して固唾を呑んだ。
そんなリュナンの様子が解ったのか、ルックはまだ瞳を閉じたままでこう言った。
「封印が解けてしまったら、魔術師の塔へ来るといいよ。
僕がまた封印してあげるから。
何なら、封印する術を君自身が身に付けるのもいいね」
(………………君を、そんなことで失いたくは無いからね)
最後の言葉は、あえて声音にはしなかった。
「ルック……」
滅多に表に出さないルックのやさしさに触れ、リュナンは小さく微笑みながら友の名を呟いた。
そして、少しの時を置いてリュナンは嬉しくなって言った。
「魔術師の塔へ行く理由が出来ちゃったな」
「嬉しそうだね」
そう返すルックに、リュナンはその微笑に寂しさを混ぜた。
「トラン解放戦争の後で…ソウルイーターから大切な人を遠ざける為に、1人で頑張って行こう…とか思ってたけど、ホント言うと心細かった。
まだまだ真の紋章について教えて欲しいことも沢山あるし、やっぱり誰かと一緒にいたい…親友と呼べる人と一緒に居たいと…思ってたんだ」
「親友…か。それも悪くないね」
そう言ってルックはクスッと笑みを漏らした。
まさかリュナンが、自分とよく似たことを考えていたなんて…。
ルックも、真の紋章を宿しているせいか、人の中にあまり入ろうとはしなかった。
だけど、リュナンと出会ってからは…同じ[時間]を持つ友となら、一緒にいてもいいと、そう思い始めていた。
「うん。じゃあ、またいろいろと教えてよね、ルック」
リュナンは、満面の笑みを浮かべた。
その笑みに、ルックはハッ、となった。
(そういえば…あの時以来、リュナンのこんな人懐っこい笑顔って見ていなかったような…)
あの時…それはリュナンが赤月帝国の遣いで初めて魔術師の塔へ訪れた時だ。
まだ子どもだったルックに、リュナンは人懐っこい笑顔を向けた。
その次に会ったのは、解放軍の本拠地だった。
解放軍の盟主になったリュナンは、その頃にはもうあまり笑わなくなっていた。
大切なものをどんどん失っていって……いつしか作り笑いしかしなくなっていた。
そんな中でも、作り笑いではない温かで力強い笑顔を向けてくれたこともあったが、その笑顔も、たった1度だけだった。
そんな彼が、今、目の前で笑っている。
同盟軍に協力するようになって、悲しさと辛さは増しているだろうに…。
リュナンがこれほどまでに自分を親しく思ってくれていることを、ルックは改めて知り、そして嬉しく思った。
「教える…か。騒々しい日々になりそうだね」
口ではそう言っているが、表情は穏やかなルック。
リュナンはやっぱり笑顔でそんな友を見ていた。
――それからしばらくして、後にデュナン統一戦争と称された戦争は終わった。
あれから14年…リュナンが悪夢を訴えることは無かった。
だが、風の主が[神殺し]を決意して魔術師の塔を離れたその日に、
生と死を司る紋章は、主に2度目の悪夢を見せた。