Ladybird girl
傷があるうちはまだよかったものの、包帯が取れかさぶたが剥がれ、傷の記憶を忘れてもアメリカはイギリスの自宅に通い続けた(ほんとうなら、傷だって理由にはならなかった。痛むのならば訪れるべき場所は保健室である)。カナダには黙っていたが、気づかれてはいたと思う。ただ何も言ってはこなかったのでアメリカはそのままにしておいた。
イギリスはといえば、居間にアメリカとふたりきりでいるかぎり話しかけてくることはなかった。ただテレビもなにもつけずにひとりで生徒会の仕事に熱中するか趣味(パッチワークやら刺繍やら読書やら、そういった乙女チックなやつだ)に没頭するかどちらかで、アメリカなどいないも同然、そんな素振りをするのには閉口した。そのうち退屈をもてあましたアメリカは自前の携帯ゲーム機を持ち込むようになったが、これが取り上げられることは流石になかった。
やがてイギリスがあくびをして、自然と時計に目をやりアメリカは時間にぎょっとする。ついで自分の眠気をも自覚する。最初のころは毎回のように、最近になってときどき「あたし、もう帰ろうか?」などと殊勝げな言葉が出てくるものの、イギリスは取り合わないで、「客間の用意は出来ているから、汗っぽかったらシャワーを浴びてこい」と言う。いつの間にか下着も、ナイトウェアも、アメリカのサイズにぴったりなものがそろえられている。後者には取り扱い方法を書いたタグがない事実は無視した。シャワールームではシャンプーもボディソープも使わないでただ軽く汗だけ流す。寮で先に身体を洗ってから走るようになった。
そして目を閉じて、開けて、朝が来る。
朝は驚くくらい簡単だ。イギリスが起きているかどうかも分からない。勝手にシリアルと牛乳、ときどき冷蔵庫の中に入っているゆで卵で朝食にして、朝露に濡れた庭の中をくぐって抜け出す。
まるでおとぎばなしだと密かに思った。さしずめあの蔦と潅木に覆われた小さな一軒家は魔女の棲家で、アメリカに出されるミルクティーに垂らされる一滴は実はブランディーよりも毒に近い何かだ。日ごとにアメリカが蔓薔薇の絡まった戸をくぐり抜けるたびに物語がひとつはじまりさえせずに終わる。そこまで考えて、自分で苦笑いした。イギリスのファンタジーがすこし移ったのかもしれない。
イギリス。
ファンタジーの中にも一筋の真実が織り交ぜられているとすれば、その真実は彼女のことだ。
ときどき、妖精のためだと言って彼女は窓辺に一杯の牛乳を置いたが、アメリカは近所の野良猫が皿を空にするのだと信じて疑わなかった。相変わらず学園では顔を突き合わせば諍いが起きたし、あのソファの上で隣り合って座るときでさえ小さな口争いは起きた。けれど一緒にただいることなら出来たのは、不思議としか言いようがなかった。
ときどき、アメリカはわけもなく手元の小さな液晶画面のことを忘れてイギリスの指先が色とりどりの布切れや刺繍枠やペーパーバックの上で動くさまを眺めた。
そんな光景を懐かしいと感じる自分の心を疑い、隠しておかなければ、とどうしてか思った。通うことは秘密でもなんでもなかったのに、いつの間にか誰にも言えないことばかりが増えていった。
*
十月がやってくると日は一気に短くなってしまう。いつの間にか冬服を取り出さなければならなくなり、やがてアメリカも制服の上にパーカーを羽織るようになって、これがまた毎年のごとくイギリスの気に触って説教の種に加えられた。つまりイギリスはいつも通りで、なのにアメリカはいつも通りに戻らなかったし戻れなかった。そして喉の渇きで目が覚めたある夜に彼女の入れる紅茶を思い出してハッとした。
(どっちがあたしの普通なんだっけ)
思い出せないままで冷たい水をちびちび飲んでいるとやがて胸にかかった靄がすこしずつ苛つきに代わって、喉のあたりにいやな塊がこみ上げてくる。そんなことをしているうちにすっかり覚めてしまった目を擦りながらアメリカはため息を吐いた。そして、穏やかな寝息をたてているカナダをちらりと見やってから外出するために着替えはじめた。
思い出せないことをいつまでも思っているのは怖かった。知らない場所に辿りついたときどうすればいいのかがわからなかったから。
だからアメリカが安心したのはようやく走り出してからだった。そうしながらも抜け出すべきタイミングも辿るべきルートも身体が覚えていたことに失望しながらため息を重ねて、やがて問題のスポットにたどりついた瞬間に思わず漏らした声が意外に大きかったらしい。自転車置き場のバラック、常に放置されている鍵の錆びた自転車を動かすと現れるひとひとりがぎりぎり通れるくらいの隙間の前でふたりが同時に振り向いた。
「あれ、アメリカ?」
「およ、」
この遅いのにいつもの通りしっかり着こなした制服の上からトレンチコートを羽織ったフランスと、何故か腕まくりをしてカーディガンを手にかけているスペイン。もう一度三人で顔を見合わせたあとで、スペインは口を開くなり、
「フランス、なんでこのがきんちょにとっておきを教えたん?」
「がきんちょッ?!」
「だってがきんちょだもん」
「なにおう!!!」
条件反射で身を乗り出したアメリカの前にフランスが立ちはだかって軽く肩を叩いたあと、スペインを振り返って呆れた口調になった。なぜか三人、狭くもない自転車置き場の中でくっついた恰好になっていたので、フランスの肩口からアメリカはしかめっ面をしてみせた。
「スペイン、ちょっと黙っててくれないかしら」
「えー」
「ここでちょっかいをかける意味が分からないわ、まったく」
「だって、そこにアメリカがいるんだもん」
「はいはいはいはい。それでアメリカ、あなたはこの時間に出かけるの?」
「この時間に戻ってきたひとたちに言われたくないんだけど」
「それはそれ、これはこれ」
「……いいから、そこ通してほしいんだけど」
「あら、私はべつにイギリスじゃないから、通さないつもりなんてちっともないわよ」
どうぞ、なんて笑いながら退いたのに何か言ってやろうと口を開きかけ、アメリカは不意に視界を掠めた光景に素早くまばたきを何度が繰り返した。スペインの手元のカーディガンが落ちそうになったのがきっかけだった。アメリカから見て左側にずれたフランスが右手でそれを取り上げたとき、ふたりはしっかり指と指を絡めていたのである。
惚けたようにその、手の持ち主に相応しくもないいっそこどもじみた繋ぎ方を眺めていると不意にフランスの笑い声が聞こえ、アメリカは弾かれたように顔を上げた。
「ま、あなたもしっかりやりなさい」
「いいから行こうよお、フランスー」
「こらこら、制服は伸びるから引っ張らないで」
「行ーこーうーよー」
「はいはい。じゃあね、アメリカ」
最後にアメリカへひらひらと手を振ったフランスの表情は、むしろどこか優しげだった。その一方でもうアメリカのことなんてすっかり忘れたようなそぶりのスペインと彼女が並んで、というよりはぴったりくっついて寮のほうに歩いていく後ろ姿をしばらくの間ぼんやりと眺める。勿論求めていた答えは分からなかったし、そもそも何が分からなかったのがよく分からなくなってアメリカはやはり走ることにした。
作品名:Ladybird girl 作家名:しもてぃ