彼女の海で果てようか
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深夜の海岸だ。砂浜が僅かに白いだけで、大海原は呆れる程に黒い。そんな砂浜に立ち、俺はかつてイタリアだった所を見ていた。
イタリアが無くなってどれぐらい経っただろう。俺の体は確かに日常を刻んでいるはずなのに、イタリアのことを考えると途端に時間の感覚は滅茶苦茶に千切れて分断された。都合がつく度にイタリアを見に来るのが俺の習慣になっていた。なるべく近くで見たいからと、俺は決まってイタリアの近隣国を選んで足を運んでいた。フランスに始まりギリシャまで、無くなった半島をなぞるように俺は国々を訪ねた。それぞれ最初に短期滞在の旨を伝えた時の反応は様々だった。フランスは「分かった、あまり遅くなるな」と言い、オーストリアは痛ましげな顔をしてしばらく黙った後「いいでしょう」と言った。ただスイスだけが大仰なしかめっ面をして一言「死ぬな」と前置きしてから許可を出した。死ぬなとはどういう意味だろうかと俺は首を捻った。
全員が全員、夜の海の危険さを俺に説くことを忘れなかった。そう、俺は夜を選んでイタリアを見ることにしていた。明るくきらきらしい海はどうも眩しくて合わない。それに昼間の澄んだ海は水の下の黒ずんだイタリアや所々海上に突き出た残骸を丸見えにしたので、あるいはそこから目を背けたかったのかもしれない。
そして、今。俺はざぶざぶと海に分け入った。腰ぐらいまで海に浸かった所で俺はのたのたと歩き回り、始めた。
「イタちゃあん」
彼女の名を呼ぶことを、だ。彼女達は姿を見せない。彼女達の遺体は上がっていない。もしかしたら上がらないのかもしれない。もしかしたら消滅してしまったのかもしれない。耳を澄ませ返事が無いことを確かめて落胆した後、俺は恐る恐る次を呼んだ。
「…ロマーノお」
消えてしまった恋人のこと。あれが起こった時のヴェネチアーノを俺は知らない。いなくなったというのも聞かされた話だ。だがロマーノは違う。本当に俺の目の前で消えてしまったのだ。俺は、少なくともロマーノには何かできたかもしれないのに何もできなかった。彼女が俺の視界の中でいなくなってしまったことへの罪悪感で、俺はいつもロマーノの名前を一番に呼べなかった。
「イタちゃあん」
「ロマーノお」
腰ぐらいの水位を保つようにしながら注意深く耳を澄まし、俺は波を掻き分けて歩いた。これもいつものことだ。服は乾かして戻るので誰かから海に入ったのかと問われることは無かったし、俺はあえてそれを言うこともしなかった。歩き続けて喉が痛くなった頃に陸に戻る。それもいつものことだったが今日は少し違った。
ふと立ち止まった俺は、ぽた、ぽた、と涙を落とした。
「ロマーノ、どこに居るん…?」
いい加減疲れてしまったのだ。海を歩き続けることにではない、ロマーノのいない現実にだ。料理を食べてくれるロマーノがいない。遊びに来るロマーノがいない。手を繋ぐロマーノがいない。抱き合うロマーノがいない。キスをするロマーノがいない。肌を重ねるロマーノがいない。スペインが恋したロマーノがいない。スペインが愛したロマーノがいない。辛くて辛くて仕方無かった。胸が張り裂けそうだった。
鼻を啜って耳を澄ませる。聞こえるのは波と風の音だけだ。これだけ泣いているのにまだ新たな涙が後から後から湧き上がってくる。波間にぽつぽつと涙が落ちた。塩水に塩水が混じる。振り切るように頭をぶるぶると振って俺は一歩踏み出した。
踏み出した足先の流れは、違った。
「え」
ぐわん、と、例えるなら足の下に敷かれた絨毯を引かれるような感覚の後、俺の目には満天の星空が映り込んだ。何が起こったか分からないまま背中から海に倒れ込み、俺はそのまま一気に押し流された。
「…!!」
どうやら沖に向かう流れに踏み込んでしまったらしい。俺はすっかりパニックになって必死にもがいたが、流れから外れることはできなかった。泳ぎは不得意ではなかったつもりだが恐怖で体が上手く動かない。加えて大きい波がやってきて、とうとう俺の体はすっかり海に呑まれてしまった。
(息…あかん、続かん…!!)
水上に上がろうにもどちらが海面なのかが分からない。吐いた空気の代わりに海水があっという間に鼻に口に喉に肺に、詰まった。耳元で心臓ががんがんと鳴っている。動かそうとする手や足それに肺がびりびりと痺れた。
本当にやばい、と思ったその瞬間、ふわりと視界の端で何かが舞った。ぼやけにぼやけた夜の水中という最悪の視界だったが、俺の目はその物体の正体を捉えてくれた。
俺は一瞬、今の状況の何もかもを忘れて目を見開いた。
ロマーノの、服だった。俺がロマーノに贈った、結局1回しか着ている姿を見ることができなかった、白い、ワンピース。
全身の刺すような痛みも気にならなくなった。ぼがりと、恐らく最後の白い泡を吐いた俺は多分、泣きながら笑っていた。
ここに居たんだ。ここに居たんだ、ロマーノ。俺は随分と遠回りをしてしまった。ごめんね。待たせた。今度は離さない。ずっとずっと手を繋いでいよう。愛してる。
俺は手を伸ばした。
さあ、彼女の居る海にかえろう。
作品名:彼女の海で果てようか 作家名:あかり