独善家達の晩餐
「やぁ、おかえり。早かったね」
帰宅したセルティ・ストゥルルソンは、玄関先で絶句した。元より言葉を語る口を持たないセルティだったが、仮に首があったとしても、その口をぽかんと開ける事しか出来なかっただろう。硬直してしまったセルティを見て、彼女を迎え入れようとした男は不思議そうに首を傾げた。
そんな男を置き去りに、セルティは逃げるように玄関を飛び出した。派手な音を立てて扉が閉じる。セルティは、現状を把握するためぐるりと周囲を見回した。エレベータの位置も廊下の様子も、全てが慣れ親しんだ自宅のマンションだ。つねるべき頬が無いので、セルティは自分で自分の手の甲をつねった。鈍い痛みが走る。セルティの一縷の望みは、呆気なく絶たれた。
「ちょっと、何やってんの?」
不意に開いた扉から、男が顔を出した。思わず後ろに飛び退いてしまったセルティを、怪訝そうな顔付きで見つめる。男の出で立ちは、白いシャツに黒いズボン、その上から白衣を羽織っている。セルティは、まじまじと男の顔を凝視した。
「何?」
男が首を傾げた。セルティは動揺も露にPDAを差し出した。
『どうsておまえgsこkに』
男は、打ち間違いだらけのPDAに目を瞠る。それから、その視線をついとセルティのヘルメットに向けると、にやりと笑った。
同日同時刻。
「いやー、さっきのあの人、何だったんだろうなぁ」
買い物袋を床に置いて、紀田正臣が言った。
「何だろうね? お医者さんかな」
同様に荷物を置いた竜ヶ峰帝人が、首を傾げた。
「保健室の先生……とか」
手ぶらだった園原杏里が、所在無さげな様子で呟いた。
三人は、正臣のアパートに集まっていた。狭いワンルームの、さらに狭いキッチンで身を寄せ合い、他愛無い会話を交わす。
「どっちにせよ、普通あの格好で出歩くか? 大学の研究員とかかもな」
正臣が、買い物袋の中身を取り出しながら言った。狭い作業スペースに並べられるのは、じゃがいも、たまねぎ、にんじん、牛肉の切り落とし。
「僕、やっぱりお医者さんだと思うな」
特売の肉のパックを視界の端に収めて、帝人が呟いた。
「ま、何にしても変わった奴なんだろうな」
正臣は、キッチンの収納から一番大きな鍋を取り出した。軽く水で濯ぐと、コンロの上に置く。同様に、まな板と包丁も作業台に準備する。
「あの、何か手伝いましょうか?」
杏里が尋ねた。正臣は、軽く苦笑して手を振った。
「いーよいーよ。テレビでも見てなって」
「でも……」
食い下がる杏里に、正臣はおたまを掲げ、ぱちりと片目を瞑って見せた。
「いーのいーの。キッチン狭いし。二人で腹を空かせて待ってな」
正臣の言う通り、キッチンは一人立つだけで精一杯だ。杏里は、帝人と正臣をきょろきょろと見比べた。帝人は、既にベッドに腰掛けて、だらりと寛いでいる。杏里の視線に気付いて、帝人がへらりと笑った。
「大丈夫だよ、園原さん。本人がいいって言ってるんだから、任せよう?」
「そうそう。任せて? 俺、上手いから」
炊飯器を開けながら、正臣が帝人に同調する。米たくさん炊かないとな、と上機嫌に呟いた。
「カレーに上手い下手ってあるの?」
「無い。だから安心されたし」
キッチンを跨いで、二人が軽口を叩き合う。杏里は、結局帝人に手招かれるままにベッドに腰を下ろした。
「別に心配はしてないんだけどね」
帝人が、杏里にだけ聞こえるように囁いた。杏里が見上げると、帝人は悪戯っぽく笑っていた。キッチンでは、正臣が調子はずれな鼻歌を歌い始めている。杏里は数度瞬くと、微笑を浮かべて頷いた。
ベッドは壁際にぴたりと配置されていた。安アパート特有の、薄い壁の向こうから、規則的な包丁の音が聞こえる。懐かしいその音を、帝人も杏里も何をするでもなく聞いていた。どの家も、夕食の支度をする時間だ。
そこへ、ふらりと正臣がやってきた。
「何ぼんやりしてんだお二人さん。ほれ、乗ってみろ」
そう言いながら、正臣が帝人の前に差し出したのは体重計だった。アナログの古めかしいデザイン。帝人はのろのろと足を乗せた。針が揺れる。表示される数値を、正臣がしゃがんで覗き込んだ。
「うわぁ!」
「えっ!? 何?」
正臣が叫んで仰け反ったので、帝人も驚いて体重計を降りた。数字を示す針が乱れて震える。
「おい、お前、もう一回乗れ」
正臣が、恐る恐る口を開いた。帝人は不審に思いながらも、もう一度体重計に足を乗せた。今度は、杏里もそれを覗き込む。体重計の針が、先ほどと同じ数値を示して止まった。正臣は、数値をちらりと見ると頭を抱えた。
「何、その反応」
帝人が釈然としない口調で言うと、正臣が帝人に詰め寄った。
「お前、何だよこれ! こんなん女子だぞ! 女子!」
正臣の剣幕に押され、帝人がベッドの上に乗り上げた。
「えぇ、そうかな? そりゃちょっとは痩せたけど」
春の身体測定より二、三キロ痩せた程度だったので、帝人はさほど驚いてはいなかった。
「元が痩せてんだよお前は! そのうち死ぬぞ!」
正臣が声を荒げて力説する。
「そんな大袈裟な……」
帝人は乾いた笑いを漏らした。その時、隣の部屋から壁が控えめに叩かれた。どうやら筒抜けだったらしい。正臣は一瞬口を噤むと、幾分抑えめな声で帝人に言った。
「今日はとにかく食え。明日も明後日も食え」
人差し指を突き付けられて、帝人は仰け反りながらも頷く。正臣は訝しげに帝人を見つめていたが、ふと息を吐いて帝人の前から退いた。
「……よろしい。じゃ、俺はカレー作りに戻るぞ」
正臣は、大袈裟に嘆息しながら体重計を抱えて立ち上がった。その姿を目で追いつつ、帝人も嘆息した。ベッドに座りなおそうとした帝人だったが、ふと視線を感じて隣を伺う。杏里が、じっと帝人を見つめていた。ぱちりと視線が合う。
「え、どうかした?」
帝人が戸惑いながら尋ねると、杏里が緩く首を振った。
「あの、たくさん食べて下さいね」
杏里は、不安そうに視線を揺らしている。帝人は動揺しながらも、ようやく危機感を持ち始めた。
――――――数時間前。
下校途中の帝人、正臣、杏里の三人は、池袋の非日常に巻き込まれかけていた。
三人がその事実を理解する前に、目の前の道を捻じ曲がった街灯が飛んで行った。間髪入れずに自動販売機やバイク、挙句の果てには街路樹が同じ軌道を辿る。池袋に住む者なら、稀に目にする光景。
三人は、示し合わせたかのように回れ右をすると、今まで来た道を逆走した。全力疾走でその場を離れる。背後から何か怒声が聞こえたが、何を言っているのかまでは分からなかった。
しばらく走ったところで、背後から妙な音がした。正臣は足を止めて振り返る。杏里も同様に後ろを振り向いていた。そこに、一緒にいたはずのもう一人の姿を見つけ、正臣は呆れたように嘆息した。
「……おいおい、しっかりしろよ少年」
転んで地面にへばりついていた帝人は、情けない声で呻いた。
「あいたた……」
正臣と杏里が、後戻りして帝人の傍へ歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
杏里が心配げに尋ねた。
「あはは。大丈夫大丈夫」
帰宅したセルティ・ストゥルルソンは、玄関先で絶句した。元より言葉を語る口を持たないセルティだったが、仮に首があったとしても、その口をぽかんと開ける事しか出来なかっただろう。硬直してしまったセルティを見て、彼女を迎え入れようとした男は不思議そうに首を傾げた。
そんな男を置き去りに、セルティは逃げるように玄関を飛び出した。派手な音を立てて扉が閉じる。セルティは、現状を把握するためぐるりと周囲を見回した。エレベータの位置も廊下の様子も、全てが慣れ親しんだ自宅のマンションだ。つねるべき頬が無いので、セルティは自分で自分の手の甲をつねった。鈍い痛みが走る。セルティの一縷の望みは、呆気なく絶たれた。
「ちょっと、何やってんの?」
不意に開いた扉から、男が顔を出した。思わず後ろに飛び退いてしまったセルティを、怪訝そうな顔付きで見つめる。男の出で立ちは、白いシャツに黒いズボン、その上から白衣を羽織っている。セルティは、まじまじと男の顔を凝視した。
「何?」
男が首を傾げた。セルティは動揺も露にPDAを差し出した。
『どうsておまえgsこkに』
男は、打ち間違いだらけのPDAに目を瞠る。それから、その視線をついとセルティのヘルメットに向けると、にやりと笑った。
同日同時刻。
「いやー、さっきのあの人、何だったんだろうなぁ」
買い物袋を床に置いて、紀田正臣が言った。
「何だろうね? お医者さんかな」
同様に荷物を置いた竜ヶ峰帝人が、首を傾げた。
「保健室の先生……とか」
手ぶらだった園原杏里が、所在無さげな様子で呟いた。
三人は、正臣のアパートに集まっていた。狭いワンルームの、さらに狭いキッチンで身を寄せ合い、他愛無い会話を交わす。
「どっちにせよ、普通あの格好で出歩くか? 大学の研究員とかかもな」
正臣が、買い物袋の中身を取り出しながら言った。狭い作業スペースに並べられるのは、じゃがいも、たまねぎ、にんじん、牛肉の切り落とし。
「僕、やっぱりお医者さんだと思うな」
特売の肉のパックを視界の端に収めて、帝人が呟いた。
「ま、何にしても変わった奴なんだろうな」
正臣は、キッチンの収納から一番大きな鍋を取り出した。軽く水で濯ぐと、コンロの上に置く。同様に、まな板と包丁も作業台に準備する。
「あの、何か手伝いましょうか?」
杏里が尋ねた。正臣は、軽く苦笑して手を振った。
「いーよいーよ。テレビでも見てなって」
「でも……」
食い下がる杏里に、正臣はおたまを掲げ、ぱちりと片目を瞑って見せた。
「いーのいーの。キッチン狭いし。二人で腹を空かせて待ってな」
正臣の言う通り、キッチンは一人立つだけで精一杯だ。杏里は、帝人と正臣をきょろきょろと見比べた。帝人は、既にベッドに腰掛けて、だらりと寛いでいる。杏里の視線に気付いて、帝人がへらりと笑った。
「大丈夫だよ、園原さん。本人がいいって言ってるんだから、任せよう?」
「そうそう。任せて? 俺、上手いから」
炊飯器を開けながら、正臣が帝人に同調する。米たくさん炊かないとな、と上機嫌に呟いた。
「カレーに上手い下手ってあるの?」
「無い。だから安心されたし」
キッチンを跨いで、二人が軽口を叩き合う。杏里は、結局帝人に手招かれるままにベッドに腰を下ろした。
「別に心配はしてないんだけどね」
帝人が、杏里にだけ聞こえるように囁いた。杏里が見上げると、帝人は悪戯っぽく笑っていた。キッチンでは、正臣が調子はずれな鼻歌を歌い始めている。杏里は数度瞬くと、微笑を浮かべて頷いた。
ベッドは壁際にぴたりと配置されていた。安アパート特有の、薄い壁の向こうから、規則的な包丁の音が聞こえる。懐かしいその音を、帝人も杏里も何をするでもなく聞いていた。どの家も、夕食の支度をする時間だ。
そこへ、ふらりと正臣がやってきた。
「何ぼんやりしてんだお二人さん。ほれ、乗ってみろ」
そう言いながら、正臣が帝人の前に差し出したのは体重計だった。アナログの古めかしいデザイン。帝人はのろのろと足を乗せた。針が揺れる。表示される数値を、正臣がしゃがんで覗き込んだ。
「うわぁ!」
「えっ!? 何?」
正臣が叫んで仰け反ったので、帝人も驚いて体重計を降りた。数字を示す針が乱れて震える。
「おい、お前、もう一回乗れ」
正臣が、恐る恐る口を開いた。帝人は不審に思いながらも、もう一度体重計に足を乗せた。今度は、杏里もそれを覗き込む。体重計の針が、先ほどと同じ数値を示して止まった。正臣は、数値をちらりと見ると頭を抱えた。
「何、その反応」
帝人が釈然としない口調で言うと、正臣が帝人に詰め寄った。
「お前、何だよこれ! こんなん女子だぞ! 女子!」
正臣の剣幕に押され、帝人がベッドの上に乗り上げた。
「えぇ、そうかな? そりゃちょっとは痩せたけど」
春の身体測定より二、三キロ痩せた程度だったので、帝人はさほど驚いてはいなかった。
「元が痩せてんだよお前は! そのうち死ぬぞ!」
正臣が声を荒げて力説する。
「そんな大袈裟な……」
帝人は乾いた笑いを漏らした。その時、隣の部屋から壁が控えめに叩かれた。どうやら筒抜けだったらしい。正臣は一瞬口を噤むと、幾分抑えめな声で帝人に言った。
「今日はとにかく食え。明日も明後日も食え」
人差し指を突き付けられて、帝人は仰け反りながらも頷く。正臣は訝しげに帝人を見つめていたが、ふと息を吐いて帝人の前から退いた。
「……よろしい。じゃ、俺はカレー作りに戻るぞ」
正臣は、大袈裟に嘆息しながら体重計を抱えて立ち上がった。その姿を目で追いつつ、帝人も嘆息した。ベッドに座りなおそうとした帝人だったが、ふと視線を感じて隣を伺う。杏里が、じっと帝人を見つめていた。ぱちりと視線が合う。
「え、どうかした?」
帝人が戸惑いながら尋ねると、杏里が緩く首を振った。
「あの、たくさん食べて下さいね」
杏里は、不安そうに視線を揺らしている。帝人は動揺しながらも、ようやく危機感を持ち始めた。
――――――数時間前。
下校途中の帝人、正臣、杏里の三人は、池袋の非日常に巻き込まれかけていた。
三人がその事実を理解する前に、目の前の道を捻じ曲がった街灯が飛んで行った。間髪入れずに自動販売機やバイク、挙句の果てには街路樹が同じ軌道を辿る。池袋に住む者なら、稀に目にする光景。
三人は、示し合わせたかのように回れ右をすると、今まで来た道を逆走した。全力疾走でその場を離れる。背後から何か怒声が聞こえたが、何を言っているのかまでは分からなかった。
しばらく走ったところで、背後から妙な音がした。正臣は足を止めて振り返る。杏里も同様に後ろを振り向いていた。そこに、一緒にいたはずのもう一人の姿を見つけ、正臣は呆れたように嘆息した。
「……おいおい、しっかりしろよ少年」
転んで地面にへばりついていた帝人は、情けない声で呻いた。
「あいたた……」
正臣と杏里が、後戻りして帝人の傍へ歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
杏里が心配げに尋ねた。
「あはは。大丈夫大丈夫」