独善家達の晩餐
帝人は、暢気に笑って片手を振った。地面に座り込んだままの帝人の腕を、正臣が掴んだ。
「ダッセーの。ほら」
正臣が帝人の腕を引っ張った。しかし、何故か帝人は立ち上がらない。正臣が首を傾げた。
「おい、どうした? どっか痛いのか?」
正臣が困惑して問うと、帝人は軽く首を振った。それからゆっくりと立ち上がろうとしたので、正臣も再び帝人の腕を引っ張る。帝人は、今度はちゃんと立ち上がった。しかし、その動作が不自然に映って、正臣が顔を曇らせる。
「……おい」
その様子に気付いて、帝人が苦笑を浮かべた。
「ごめんごめん。なんかちょっとふらっとしただけ」
「ふらっとって……ていうか、お前、なんか痩せた?」
正臣が、帝人の体を見回した。じろじろと視線を寄せられて、帝人が困り顔で笑う。
「あー、ちょっと。夏バテ?」
帝人が首を傾げると、正臣がきゅっと眉を寄せた。
「えー? 大丈夫なのかよ? もう秋だぞ? お前元々もやしなのにさ」
「もやしは余計だよ」
帝人は不満げに返した。正臣は、再び帝人の腕を掴むと、その腕を二、三振った。正臣が、あからさまに顔を顰める。
「何、その顔」
帝人が不審げに問いかけた。
「……肉が無い」
正臣が絶望的な声で言い放った。帝人がぐっと詰まる。
「あの、栄養を取ってよく休んだほうがいいですよ」
杏里がおずおずと口を開いた。正臣も杏里に同調する。
「そうだぞ。お前、ちゃんと食ってるのか?」
二人に見つめられて、帝人は視線を逸らした。
「まぁ、食べたり、食べなかったり」
斜め上を見上げながら、帝人が口ごもる。
「おいおい……」
正臣がげんなりした様子で、帝人の腕を振った。無抵抗な帝人の手の平が揺れる。男子高校生にしては、薄い手の平だった。
「よし! 今日は皆でご飯にしよう!」
帝人の腕を放すと、正臣がわざとらしい仕草で両手を打った。
「どっか食べに行くの?」
唐突な提案に、帝人が首を傾げる。すると、正臣はにやりと笑った。
「俺が作る!」
胸を張る正臣に、帝人と杏里が顔を見合わせた。
「よし、そうと決まれば善は急げ! 俺んちに鞄置いて買い物に行こう!」
「え、まだ決まってないよね」
帝人が制止するが、正臣は強引に帝人と杏里の手を引っ張った。正臣に引き摺られながら、帝人は杏里の様子を伺った。杏里は多少戸惑っていたが、満更でも無さそうに見えたので、帝人は異を唱える口を閉じた。
その頃、非日常の原因だった折原臨也は、辛うじて逃げ切り、雑踏の中に紛れ込んでいた。臨也は、妙に周囲からの視線を感じていた。大立ち回りの挙句洋服が汚れてしまったせいだろうと、些細な違和感を胸の奥にしまい込む。仕事帰りに天敵と鉢合わせた不運を呪いながら、臨也は目立たぬ程度の速さで駅へと急いだ。
しかし、不意に声をかけられ、臨也は立ち止まる。
「あの」
若い女性の声だった。反射的に立ち止まってしまった臨也は、仕方なしに振り向いた。臨也に声をかけた女性は、何故か困惑した表情を浮かべている。臨也が不思議に思っていると、女性は全く予想外の言葉を吐き出した。
「頭、大丈夫ですか」
「はい?」
臨也は思わず怪訝な顔をした。言われ慣れた言葉ではあるが、初対面の人間に言われるのはこれが始めてだ。
「……お構いなく」
臨也は、適当にあしらって去ろうとした。再び静雄に見つかっては面倒だ。しかし、女性は何故か食い下がる。
「あの、でも……」
しつこく引き止められて、臨也は内心苛立った。無視して行ってしまおうと一歩踏み出す。しかし、女性が確信に触れ、臨也は再び足を止めた。
「血が……」
予想外な言葉に、臨也はきょとんと目を丸くした。しかし、思い当たることがあり、はっとして後頭部に手を当てる。指先で探ると、襟足の髪が湿っていた。臨也は、その手をゆっくり前へ持ってくる。手の平は、予想通りの惨状になっていた。
そして、岸谷家のキッチンに佇む、二つの影。一人はこの家の住人、セルティ・ストゥルルソンだ。もう一人は、新宿に住むはずの情報屋、折原臨也だった。いつもの黒っぽい服装ではなく、上は白いシャツを着ている。
臨也は、行き先を変更して新羅のマンションを訪れていた。ちょうど良く在宅していた新羅に診てもらうと、出血の割りに傷は浅いようだった。痛みも大したことは無い。血が首を伝って洋服を汚してしまったほうが、臨也にとっては余程痛手なぐらいだった。
結局、セルティが遅くなる予定で暇を持て余していた新羅と、今日の仕事が粗方片付いていた臨也で、夕飯を共にすることになった。思ったよりも治療が簡単なものになったので、臨也が調理を担当することで対価とした。外食でも良かったが、再び静雄に見つかる可能性も否めない。
そうして新羅が買い物に出かけている間に、仕事が速く切りあがったセルティが帰ってきた。臨也は新羅に服を借り、興味本位で白衣まで着込んでいた。背格好が似ている二人は、まるで首だけ挿げ替えたような出で立ちだった。困惑するセルティに事情を説明した後、臨也は「眼鏡が無かったのが残念だ」と零した。
臨也は、キッチンの隅に置かれた調味料入れを漁っていた。さすがにもう白衣は脱いでいた。片っ端から調味料のラベルを確認し、それに飽きると、今度は収納棚を開け始める。キッチンを見分させてくれと申し出た臨也は、次から次へと棚や引き出しを開けていった。
その斜め後ろでそわそわしていたセルティは、不意に臨也の前にPDAを差し出した。
『何を熱心に見ているんだ?』
臨也はPDAを一瞥すると、引き出しを出し入れする作業に戻った。
「……だって、ゴキブリとかいたら嫌じゃん」
臨也がぼそりと呟く。セルティが傾けた首元から、もやもやと黒い影が拡散する。臨也相手に隠す必要は無いので、ヘルメットは帰宅して早々に外していた。
『今まで一度も見たこと無いから、大丈夫だ。ここは高層階だし』
セルティの記憶にある限りでは、ゴキブリは故郷の森で見たのが最後だった。日本の家庭に現れることもあると知識としては知っているが、実際にその姿を見たことは無い。
臨也は、用心深くシンクと壁の隙間を覗いている。
「あいつらはエレベーターにも乗ってくるんだよ? 絶対とは言い切れない」
『そんなに嫌なのか』
セルティが尋ねると、臨也が方眉を上げた。
「君には分からないかもしれないけど、人類とゴキブリの間には長い戦いの歴史があるんだよ」
臨也は嫌そうに顔を顰めながら、大袈裟に言い放った。再びキッチンをきょろきょろと見回す。セルティは複雑な心境のまま、ふらふらと動く臨也の後頭部を眺めた。本人の言う通り軽症だったのだろう、そこに治療の跡は見えない。そうしているうちに、ふと、セルティの心に魔が差した。
セルティは、臨也に気付かれないように影を操った。見えないほどに細い糸を伸ばし、その先端に昆虫を模して、キッチンの壁に蠢かせた。ちょうど、臨也の視界の端を掠めるように。セルティにしてみれば、些細な悪戯のつもりだった。