誘い水に遭う
「イギリス?ほら、お兄さんが飛んできてあげたよ」
ソファーの上のイギリスの隣に、フランスは怪訝な表情を浮かべながら腰を下ろした。それからイギリスの肩に素知らぬ顔で両腕をまわしてみたが、イギリスは嫌がる素振りの一つも見せない。そればかりか、フランスの胸に頭をもたげて腕の中に静かに収まった。
まるで催眠術にかけられたかのように目はうつろで、顔は青ざめ、人形のようにじっとしているイギリス。
フランスは子供をあやすように、その髪をゆっくりと撫ではじめた。抵抗は、やはりない。
「なに、具合悪いって?何があったの」
耳の後ろに小声をかけてやっても、ピクリとも動かない。フランスはふとイギリスの首筋の異変を認め、そのシャツのボタンに手をかけた。
イギリスが身を強張らせたのも構わず、不躾にシャツを肩から外し、フランスは露出した肌をそろりと撫ぜた。無数の小さな切り傷と赤黒く広がる痣が視界に映る。
「お前、これさ・・・」
言葉を遮るようにイギリスはフランスの手を肩から弾き、よろよろとした動作でソファーの下に膝をついた。そして、近くにあったダストボックスに手をかける。
「何、吐きたいの?」
フランスは憐みを誘うように震えるイギリスの背中を認めると、深くため息をついた。
「俺はお前の専属看護師じゃないってば」
何度かえづいた後嘔吐したイギリスは、サイドテーブルの脚にガタリと身を預けた。その振動でテーブル上の花瓶が倒れる。花瓶は中の水を吐き出しながらするすると転がり、床の上で音少なに割れた。広がる破片に、水が降りかかる。
「見たところ二日酔いじゃあなさそうだし。玄関にあったあの旗みたいなものが何か関係してんだろ?あれ、どこから持ってきたの」
背中をさするフランスの掌の温度を感じながら、イギリスの脳裏を巡る記憶。
異様なテンションに沸いた男たちに衣服を剥かれ、あの布を巻きつけられ。それから壁に追いやられてシューティングゲームの的にされ。
皿や酒瓶が全身を打った。壁に当たって砕けたそれらが頭上から降ってきた。ダメージを与えては歓声が湧き上がり、鼓膜をうるさく叩いた。
あの時、こみあげてきたのは情動を欠いた焦燥。目の前の彼らが歴史の重みを解していないことを嘆いたわけではない。痛みを与えられていることに屈辱を覚えたわけでもない。それは、自分が国として持ってうまれた生得的な反応のようなものだった。『民意に相対した』ことへの拒絶反応、とでも表現できようか。
その拒絶反応が、ずっと体の芯を侵して止まないのだ。
「イギリス、イギリス!ちょっとお前、どうしたの」
フランスの腕が半ば強引にイギリスの体を引いた。トン、と額が胸に当り、初めて自分がひどく震えていることに気づく。
なぜあんなことをしたのか?
単純なことだ。国としての意識より、自我を優先させてしまったというだけのこと。
あの旗が、何の想いも交錯しない場所で辱めをうけることがどうしても許せなかったというだけのこと。この国の歴史の支流を軽んじる彼らに絶望を感じて、頭に血が上ってしまったというだけのこと。
あれは、あらゆる犠牲を覚悟してまでも生まれることを望み、あえて自らに困難を強いることで大きな流れを築き上げた立派な支流。どうして分からないのかと。
彼らが分かるはずがないのに。
あれを誇りにしているのは「国」ではなく「自分」なのだから。