○情表現
つい先ほど、笑い声が耳障りだと吐き捨てた彼は、今や苦しげに肩で息をしている。
その姿がぞくぞくするほど生を感じさせ、それゆえに六道骸はなおさら美しく笑んだ。
だって、見たかったものをこの目で見られたのだから当たり前に嬉しいことだろう。心躍ることだろう。
自然と吊り上がった唇が、は、と吐息を紡ぎ、次いで恍惚の滲む声を吐き出した。
「大好きですよ、沢田綱吉。君のその眼も、その炎も」
「っ……いかれてるよ、お前」
「クフフ、褒め言葉として受け取りましょう」
嫌悪と忌避。肌に吹きつけてくる彼の感情すべてが心地よく快い。
惜しむらくは――ここまでしても、彼の目に憎悪が浮かばぬことだろう。
有り体に言ってしまえば、骸は綱吉に心から憎んでほしかった。
あのやわい肌に何度赤い線を引いてやったことか。拳で痣をつけた。唇で鬱血を刻んだ。
泣きわめく綱吉を、わめく気力すら失うまで腰を押しつけて揺さぶってやったこともある。
それでいて気絶は許さない。涙に濡れる瞳が骸を映さなくなるのは許しがたいことだった。
狂気の沙汰だと罵る声をあまく感じた。やめてくれと懇願する声に深く陶酔した。
だが、生憎と骸はいつだって理性の手綱を手離していないのだ。
「ねえ、僕は狂って見えますか?」
愉悦と喜悦がないまぜになった声音で歌うように問いかける。
同時に、握りしめた三叉槍の切っ先を下げていく。手に馴染んだ槍はもはや体の一部だ。
ただの幻でできた無機物と侮るな。感覚こそ通っていないが、骸はこれを指先を動かすのと同等に操れる。
爪で引っ掻くのと同等に綱吉へと触れられる。やさしく、ひどく、丁寧に、手荒に、思うがままに。
悠然と微笑みかければ、ぎり、と歯噛みする音が聞こえた。
弱まりかけていたオレンジの炎が、綱吉の額で再び火勢を吹き返す。
あと少しで地に膝を突こうとしていた疲労ぶりだったのに、綱吉の眼にはいまだ意思の火が強い。
待ってやった甲斐があって、せわしなかった呼吸もようやく整いつつあるようだ。
ファイアオレンジの光輝を放つ双眸がひたと骸を見据えた。
「――狂って、見えるかだと? 誰に訊いている。お前は正気だろう、骸」
誰に。
「ええ、そう。超直感をお持ちのボンゴレ十代目にですね。ですが、――僕は狂っていますよ?」
正気ではないと自らうそぶく。
ブラッド・オブ・ボンゴレの判断を言外に否定し、にこりと目を細めて、軽やかに地を蹴った。
三叉槍を振り抜く。膝を狙った一閃は寸前でかわされ、綱吉の両手が炎を噴く。
ハイパーモードでの高速移動だ。一瞬で背後に回った青年を、骸は慌てることなく蹴り飛ばした。
クロスした腕が攻撃をガードして、けれど衝撃までは殺しきれずに綱吉の上体がやや泳ぐ。
「くっ……!」
歯を食いしばって眉を歪めた顔は苦悶の表情である。ただ、見ようによっては情事の最中を思い出させた。
――狂っている? 綱吉は骸を正気だと見抜いた。実際、骸は理性によって動いている。
しかし結局それが何だというのだ。自覚して物狂いになる性質の悪さを骸はよく知っていた。
狂っているとわかっていて正気を装うのと、正気のまま狂気の沙汰を行うのとでは、どう違うというのだろう。
所詮大差はない。ならば骸が狂っていようといなかろうと、それは些細なことだった。
つまり、どうでもいいことなのだ。
まるで道化じみている。骸は綱吉と踊りたい。綱吉を己の舞台に引き込みたい。
「クハッ! そうそう、足を止めてはいけませんよ、沢田綱吉」
「るさい……っ」
目まぐるしい立ち回りは命を賭けた物騒なダンスだ。骸は狂気と凶器を向けて、綱吉は炎で迎え撃つ。
大空の炎が骸の長髪を掠め、一筋の髪の毛が焼き切られて宙を舞った。
代わりに三叉槍が綱吉の衣服を切り裂き、素肌を生地の合間から覗かせた。
骸にとっては忌々しいことこの上ないが、実のところ、まともに戦えばこれほど綱吉を翻弄することは難しい。
ボンゴレ十代目だ。十人目のドン・ボンゴレ。空と炎を血とともに受け継いだ彼はこの十年でしたたかに成長した。
ゆえに今回、骸が綱吉を圧倒できているのは、言わば卑怯のなせるわざだった。
――手ひどく抱いた後に戦わせれば、こうなるのも無理はないだろう?
「クフフフ」
笑いの衝動が止まらない。すれ違いざまに汗のにおいと血のにおいがする。
彼の体からは骸のつけたにおいがする。薄汚れ、肌を汚され、それでも綱吉は骸から逃げなかった。
逃げられないのだ。逃げることも目を背けることも骸は綱吉に許す気がない。
唇と頬にどうしようもなく笑みが湧いた。楽しい、嬉しい。綱吉は骸を見ている。
「君、今日はよく動けますね。――足りませんでしたか?」
意地悪く揶揄を向ければ、ハイパーモードで表情の薄くなっている顔にめずらしく明らかな朱が差した。
途端に額と両手の炎が輝度を増す。わかりやすい反応がおもしろい。
「そう怒らないでくださいよ。君の足腰を心配してあげただけじゃないですか」
「誰のせいだ――!」
瞬間の激発。炎が空気を殴りつける。空間を一直線に刺し貫くような苛烈な突進だ。
炎の推進力による高速移動であれば、下半身の動きが多少心許なかろうと問題なく思われるかもしれない。
だが実際にはそんなことはない。空中では全身でバランスをとる必要があるし、高速になればなるほど空気は壁と化す。
下肢に力の入りにくい状態では、さぞかし高速移動の制御に神経を使っていることだろう。
集中力を要するがゆえに気力の消耗に一役買い、上半身の筋肉にも余計な負担がかかっているはずだった。
ただ、それをわかっていながら骸は遠慮も容赦もしないのだ。誰がそんなもったいないことをするものか。
望んだのは骸だ。拒めずに乗ったのは綱吉だ。そう仕向けたのも骸ではあったが、今さら言っても詮ないことだ。
六道の眸に一の文字を浮かべ、骸は大盤振る舞いで幻覚をまき散らした。
いかに超直感で幻覚を見破れても、実体ある有幻覚なら無視は命取りになる。
綱吉もそれを承知しているから、顔をしかめつつも炎を広げて幻覚の植物たちを一掃する。
うねる蔓が一気に焼かれ、藍色の炎となって儚く霧散した。
「……茶番はもういいだろう。引け、骸」
「嫌です。もっと遊んでくださいよ」
荒い息を無理やり制して綱吉は精一杯の虚勢を張っている。顔色はよくない。
気力の限界も近いはずだ。笑みのまま無造作に歩み寄っていけば、あからさまに身を硬くする。
「来るな」
「嫌です」
「近づくな……!」
「お断りです」
「もうオレに構わないでくれ!」
瞳によぎる影のような微かな怯えを見た。ハイパーモードでさえこの有様だ。
これが普段の彼ならとっくに恐慌を来している。けれど骸は、やはり極上の笑みでもって返した。
「君の言うことなんて聞いてあげません」
「――骸!」
名を呼ばわる声が制止になったことなど、いまだかつてあっただろうか。そんなことはついぞない。
一歩ずつ近づく。弱々しくとも鮮やかな炎色に目を眇め、骸はひそかに胸中で己を分析する。
愛おしいと思うのと同じくらい、憎らしくて殺してしまいたいと思うこと。それはなぜなのか。
愛の反対は憎しみではなく無関心だと謳ったのは過去の偉人たちである。なるほど、もっともなことだろう。
その姿がぞくぞくするほど生を感じさせ、それゆえに六道骸はなおさら美しく笑んだ。
だって、見たかったものをこの目で見られたのだから当たり前に嬉しいことだろう。心躍ることだろう。
自然と吊り上がった唇が、は、と吐息を紡ぎ、次いで恍惚の滲む声を吐き出した。
「大好きですよ、沢田綱吉。君のその眼も、その炎も」
「っ……いかれてるよ、お前」
「クフフ、褒め言葉として受け取りましょう」
嫌悪と忌避。肌に吹きつけてくる彼の感情すべてが心地よく快い。
惜しむらくは――ここまでしても、彼の目に憎悪が浮かばぬことだろう。
有り体に言ってしまえば、骸は綱吉に心から憎んでほしかった。
あのやわい肌に何度赤い線を引いてやったことか。拳で痣をつけた。唇で鬱血を刻んだ。
泣きわめく綱吉を、わめく気力すら失うまで腰を押しつけて揺さぶってやったこともある。
それでいて気絶は許さない。涙に濡れる瞳が骸を映さなくなるのは許しがたいことだった。
狂気の沙汰だと罵る声をあまく感じた。やめてくれと懇願する声に深く陶酔した。
だが、生憎と骸はいつだって理性の手綱を手離していないのだ。
「ねえ、僕は狂って見えますか?」
愉悦と喜悦がないまぜになった声音で歌うように問いかける。
同時に、握りしめた三叉槍の切っ先を下げていく。手に馴染んだ槍はもはや体の一部だ。
ただの幻でできた無機物と侮るな。感覚こそ通っていないが、骸はこれを指先を動かすのと同等に操れる。
爪で引っ掻くのと同等に綱吉へと触れられる。やさしく、ひどく、丁寧に、手荒に、思うがままに。
悠然と微笑みかければ、ぎり、と歯噛みする音が聞こえた。
弱まりかけていたオレンジの炎が、綱吉の額で再び火勢を吹き返す。
あと少しで地に膝を突こうとしていた疲労ぶりだったのに、綱吉の眼にはいまだ意思の火が強い。
待ってやった甲斐があって、せわしなかった呼吸もようやく整いつつあるようだ。
ファイアオレンジの光輝を放つ双眸がひたと骸を見据えた。
「――狂って、見えるかだと? 誰に訊いている。お前は正気だろう、骸」
誰に。
「ええ、そう。超直感をお持ちのボンゴレ十代目にですね。ですが、――僕は狂っていますよ?」
正気ではないと自らうそぶく。
ブラッド・オブ・ボンゴレの判断を言外に否定し、にこりと目を細めて、軽やかに地を蹴った。
三叉槍を振り抜く。膝を狙った一閃は寸前でかわされ、綱吉の両手が炎を噴く。
ハイパーモードでの高速移動だ。一瞬で背後に回った青年を、骸は慌てることなく蹴り飛ばした。
クロスした腕が攻撃をガードして、けれど衝撃までは殺しきれずに綱吉の上体がやや泳ぐ。
「くっ……!」
歯を食いしばって眉を歪めた顔は苦悶の表情である。ただ、見ようによっては情事の最中を思い出させた。
――狂っている? 綱吉は骸を正気だと見抜いた。実際、骸は理性によって動いている。
しかし結局それが何だというのだ。自覚して物狂いになる性質の悪さを骸はよく知っていた。
狂っているとわかっていて正気を装うのと、正気のまま狂気の沙汰を行うのとでは、どう違うというのだろう。
所詮大差はない。ならば骸が狂っていようといなかろうと、それは些細なことだった。
つまり、どうでもいいことなのだ。
まるで道化じみている。骸は綱吉と踊りたい。綱吉を己の舞台に引き込みたい。
「クハッ! そうそう、足を止めてはいけませんよ、沢田綱吉」
「るさい……っ」
目まぐるしい立ち回りは命を賭けた物騒なダンスだ。骸は狂気と凶器を向けて、綱吉は炎で迎え撃つ。
大空の炎が骸の長髪を掠め、一筋の髪の毛が焼き切られて宙を舞った。
代わりに三叉槍が綱吉の衣服を切り裂き、素肌を生地の合間から覗かせた。
骸にとっては忌々しいことこの上ないが、実のところ、まともに戦えばこれほど綱吉を翻弄することは難しい。
ボンゴレ十代目だ。十人目のドン・ボンゴレ。空と炎を血とともに受け継いだ彼はこの十年でしたたかに成長した。
ゆえに今回、骸が綱吉を圧倒できているのは、言わば卑怯のなせるわざだった。
――手ひどく抱いた後に戦わせれば、こうなるのも無理はないだろう?
「クフフフ」
笑いの衝動が止まらない。すれ違いざまに汗のにおいと血のにおいがする。
彼の体からは骸のつけたにおいがする。薄汚れ、肌を汚され、それでも綱吉は骸から逃げなかった。
逃げられないのだ。逃げることも目を背けることも骸は綱吉に許す気がない。
唇と頬にどうしようもなく笑みが湧いた。楽しい、嬉しい。綱吉は骸を見ている。
「君、今日はよく動けますね。――足りませんでしたか?」
意地悪く揶揄を向ければ、ハイパーモードで表情の薄くなっている顔にめずらしく明らかな朱が差した。
途端に額と両手の炎が輝度を増す。わかりやすい反応がおもしろい。
「そう怒らないでくださいよ。君の足腰を心配してあげただけじゃないですか」
「誰のせいだ――!」
瞬間の激発。炎が空気を殴りつける。空間を一直線に刺し貫くような苛烈な突進だ。
炎の推進力による高速移動であれば、下半身の動きが多少心許なかろうと問題なく思われるかもしれない。
だが実際にはそんなことはない。空中では全身でバランスをとる必要があるし、高速になればなるほど空気は壁と化す。
下肢に力の入りにくい状態では、さぞかし高速移動の制御に神経を使っていることだろう。
集中力を要するがゆえに気力の消耗に一役買い、上半身の筋肉にも余計な負担がかかっているはずだった。
ただ、それをわかっていながら骸は遠慮も容赦もしないのだ。誰がそんなもったいないことをするものか。
望んだのは骸だ。拒めずに乗ったのは綱吉だ。そう仕向けたのも骸ではあったが、今さら言っても詮ないことだ。
六道の眸に一の文字を浮かべ、骸は大盤振る舞いで幻覚をまき散らした。
いかに超直感で幻覚を見破れても、実体ある有幻覚なら無視は命取りになる。
綱吉もそれを承知しているから、顔をしかめつつも炎を広げて幻覚の植物たちを一掃する。
うねる蔓が一気に焼かれ、藍色の炎となって儚く霧散した。
「……茶番はもういいだろう。引け、骸」
「嫌です。もっと遊んでくださいよ」
荒い息を無理やり制して綱吉は精一杯の虚勢を張っている。顔色はよくない。
気力の限界も近いはずだ。笑みのまま無造作に歩み寄っていけば、あからさまに身を硬くする。
「来るな」
「嫌です」
「近づくな……!」
「お断りです」
「もうオレに構わないでくれ!」
瞳によぎる影のような微かな怯えを見た。ハイパーモードでさえこの有様だ。
これが普段の彼ならとっくに恐慌を来している。けれど骸は、やはり極上の笑みでもって返した。
「君の言うことなんて聞いてあげません」
「――骸!」
名を呼ばわる声が制止になったことなど、いまだかつてあっただろうか。そんなことはついぞない。
一歩ずつ近づく。弱々しくとも鮮やかな炎色に目を眇め、骸はひそかに胸中で己を分析する。
愛おしいと思うのと同じくらい、憎らしくて殺してしまいたいと思うこと。それはなぜなのか。
愛の反対は憎しみではなく無関心だと謳ったのは過去の偉人たちである。なるほど、もっともなことだろう。