約束
「竹中様もご存知でしょう? 近頃のあのひとと言ったら、ひどく思い詰めて、塞ぎ込んで。何があったかは知りませんし、訊いてもおりませんが、あのひとがあんな暗い目をしているところを、私は見たことがありません」
ねねに相槌を打つように、ぱちんと火が爆ぜる。
「私の好きな藤吉郎は、あんな目をした男ではありませんでした。あのひとはいつも、上を見ておりました……貧しくとも苦しくとも、天を見上げて。私はあのひとの、そういうところに惚れたのです」
その気持ちは半兵衛にもわかる。半兵衛も秀吉のそういうところに「惚れた」のだ。天下に最も近い信長ではなく、その配下に過ぎない秀吉に付き従うのを選んだのは、それが理由と言っていい。
だが今の秀吉はそうではない、とねねは言う。
「なのに今のあのひとは、まるで心が死んでしまったよう。ただ息をしているだけの屍のよう……それでは嫌なのです。あのひとには生きていて欲しいんです。あのひとらしく、生きていて欲しいんです。竹中様なら、わかってくださいますでしょう?」
声も上げられないまま、半兵衛はただ頷いた。頷くよりなかった。わかるからこそ、半兵衛は秀吉を止めようとしなかったのだ。その自分にねねを止め、首を振って否定することなどできるはずがない。
「私の命ひとつであのひとが生き返るなら、私はそれで良いのです」
と、ねねはそこで一旦、話を切った。火の傍を離れ、袂から紙包みを取り出して、縁側に腰掛けたままの半兵衛の掌に乗せる。紙包みは小さいが重かった。金子だ。
「いっそ何も残さぬ方が良いかと思いまして、私の着物や道具は全て処分しました。そうして作ったお金です。竹中様にお預けしますから、あのひとのために使ってください」
それからちょっと炎の方を振り返って、
「お金にならないものはああして焼いてしまいますから」
歯が折れてしまった櫛も、使い古しの手ぬぐいも、吊るしたばかりの干し柿も、全て燃やしてしまいますから。そう言うのだ。
恐ろしいほどの潔さだ、と半兵衛は思った。小さな炎と、舞い飛ぶ火の粉を背負って立つねねが、何か神々しいものにすら感じられる。それほどの神性がなければ、人ひとりを再生させることなどできないのかもしれない。
「私はそれで良いのです。短い間ではありましたが、好いた男と連れ添い、好きな男のために死ぬのですから。これほど幸せな女が他におりましょうか。竹中様なら、わかってくださいますでしょう?」
その時、半兵衛も不意に悟った。そうでなければ、この世に覇王を産み落とすことなどできないのだ。
自分は何を迷っていたのだろう。何に怯えて縮こまっていたのだろう。時に鬼となり、時に修羅となり、人であることすらかなぐり捨てねば、秀吉のような男に添って生きることはできないのだ。
人の情に惑わされてどうする。人の欲に惑わされてどうする。それを踏み越えた先が、ねねと己が恋した男の進む場所だ。
「ああ……わかる。わかるよ、ねね」
「良かった」
半兵衛が頷くと、ねねはようやくほっとしたように息をついた。
「竹中様がそう言ってくださらなければ、私も安心して逝けません」
「今更だけど、秀吉が君を娶った理由がわかった気がするよ。君は本当に、強いひとだね」
僕も君のように強くならねば。絶対に強くならねば。この脆弱な身の先はそう長くはないだろう。よろめき、喘ぎながら進むのがやっとだろう。それでも強くあり続け、秀吉の側に連れ添わなければ。
そう思いながら、半兵衛はねねに手を差し伸べた。小指を立てた右の手を。
「きっと君は秀吉の心に永遠に残って、それゆえに秀吉は誰よりも強くなる。約束するよ、ねね。僕がきっと、強くなった秀吉を支えてみせる――君がそうしたように、僕の命が尽きるまでね」
ねねもそれに応じた。
二人は互いの小指を絡めて、その手を何度も揺り動かす。まるで子供の戯れのような仕草だが、一国を賭けた誓約状よりも重い約束だった。半兵衛とねねだけはそれをわかっていた。
「約束ですよ。きっとですよ、竹中様」
「うん、約束する」
やがて二人はどちらからともなく指を解き、それで別れの挨拶は終わりだった。これ以上の長居は不要だ。こんなところに秀吉が戻ったら厄介なことになる。半兵衛は一時も早く、ここから離れるべきだろう。
急いで縁側から立ち上がった半兵衛の目に、先程出されたきり口もつけなかった薄茶が映った。正確にはそれに添えられた干し柿が、だ。
半兵衛は少し考えてから、それを懐紙に包んで懐に押し込んだ。ねねはそれを見ても何も言わずに、黙って半兵衛の馬を引いて来てくれた。
半兵衛も何も言わずに手綱を受け取り、そのまま愛馬に跨った。従順な馬は、軽く腹を蹴られただけですぐに歩き出す。その歩みを徐々に速めつつ、半兵衛はねねの姿を振り返った。
ねねは軒先に吊るした干し柿を縄ごと外して、火の中に投げ込むところだった。
それが見えなくなるところまで来てから、半兵衛は懐の干し柿を取り出して齧った。秀吉はもう二度と口にすることはないであろう、ねねの干し柿を。
この味を僕は一生忘れないだろう。忘れぬうちはきっと、彼女のように強くいられるだろう――そう思いながら、半兵衛は干し柿を飲み込んだ。