約束
なのにどうしても手綱を緩めることができずに、気が付けば半兵衛は、早朝の秀吉宅の前に行き着いていた。
しばらく悩んでから、馬を降りた。
「ねね殿」
屋敷の奥へ声を掛けるまでに、またしばらく悩んだ。
まだ早い時間だが、もうねねは起きているはずだった。ねねは働くことが何より好きな女で、毎朝夜明けの太陽と共に起き出すのが常だ。
この頃の秀吉の暮らしぶりは、決して貧しいものではない。信長公に気に入られたことで、むしろ身分以上に豊かな暮らしだった。後日のような豪華絢爛さには流石に程遠いが、身の回りの世話をする下女を雇うぐらいの余裕はある。なのにねねは、それを嫌だと言って朝早くから飯を炊き、掃除に洗濯、はては畑仕事にまで精を出す。衣装だっていつも木綿の着物に襷がけの質素さだ。秀吉が下足番だった頃とまるで変わらない。その彼女がまだ朝寝をしているとは思えなかった。
「ねね殿……?」
だが、二度呼んでもまだ答えがない。おかしいなと思った半兵衛の目に、細い煙が立ち上っているのが見えた。裏庭からだ。こんな時間だというのに、何かを焼いているのだろうか。訝しがりながらも、半兵衛は屋敷の裏に回った。
半兵衛の予想通り、裏庭では小さな火が焚かれていた。ごみでも燃やしているのか、木屑や布切れが炎の中に見て取れる。夜明け前からそんなことをしていたのか、ねねはうっすらと汗ばんでいる様子だった。
「……ねね殿?」
「あら、竹中様」
近くで声をかけられて、やっと気付いたのだろう。ねねは少し驚いた顔をしながら、煤避けの手ぬぐいを頭から外した。
「すみません、火を焚いていると目が離せないものですから、表まで気が回らずに――うちのひとでしたら、昨夜はお城に向かったきり戻っておりませんよ。きっとまだあちらにおります」
竹中様ならご存知でしょうにと言いたげなねねに、半兵衛は首を振って答える
「いや、今日は君に用があってね」
「では薄茶でも」
今度は半兵衛の答えを待たずに、ねねは家の奥に引っ込んでしまった。お上がりくださいと勧めなかったのは、やはり長い間火から目を離すのは不安なのか。そう考えて、半兵衛は縁側に腰掛けた。
見上げた軒先には柿が吊るされていた。おそらくはほんの数日前に、ねねが手ずから干したものだろう。まだ乾ききらず、瑞々しさが残っている。
働き者のねねは、干し柿も毎年のように作っていた。砂糖がまだ金の如くに高価なものだったこの時代、茶菓や陣中食として重宝された干し柿だが、武家の妻が渋で指先を染めながら作る必要はどこにもない。近隣の農家あたりから買い求めれば済むものだ。それをねねは、渋柿を自ら縄に吊るして干すのである。
程なくして戻ってきたねねが差し出した薄茶にも干し柿が添えてあった。こちらは良く乾いて粉が吹いている。いかにも旨そうだ。
だが半兵衛は、それを口に運ぶ気にはなれなかった。これから半兵衛は、「あなたの夫があなたを殺しに来る」という話をするのである。ねね手ずからの干し柿を口にしながら、という気にはなれない。
ねねは再び火の傍に戻って、良く燃えるようにと棒で突いたり広げたりしている。それに向かって、半兵衛はこう切り出した。
「しばらく、ここを離れませんか?」
半兵衛が秀吉の留守宅を訪れるのも唐突なことであれば、出した話も唐突である。だがねねは、さほど驚く風も見せなかった。
「このあたりで戦でも起きるのですか?」
「いや、違うよ」
「うちのひとに何かありましたか?」
「そういうことでもないんだ」
「それでは……」
淡々と問うねねに、むしろ驚かされたのは半兵衛の方だ。秀吉の立身出世を陰で支えてきた女性である。常々頭の良いひとだとは思っていたが、半兵衛の唐突な話にも焦ったり騒いだりすることなく、可能性として有り得る事態をひとつひとつ確認してくる。秀吉ほどの男の妻女ともなると、やはり胆も据わっているのだな、と半兵衛は思った。
だが半兵衛が本当に驚かされたのはその後だった。
「ここにいると秀吉に殺されるから、今のうちにお逃げなさい、と?」
最初、半兵衛はねねが何を言ったのかわからなかった。それほどに驚かされたのだ。
ねねの問い掛けは、まさに真実をずばり突いていた。秀吉の最大の理解者を自負する半兵衛ですら、昨夜の慶次との話を盗み聞くまでは、秀吉の葛藤とその末に見出した解答に気付かなかったのである。なのにまさかねねが、それに気付いていたとは。しかも気付いていながら、平然としているのである。
「あらあら、竹中様がそんな顔をされるだなんて」
半兵衛の驚きを見透かしたかのように、ねねは小さく笑った。
「めおとですもの。世の中の難しいことはなんにもわかりませんが、あのひとのことだけは全てわかっておりますよ」
事も無げに答えるねねに、半兵衛は改めて驚愕させられた。きっと己の紫眼は阿呆のように見開かれて、呆然とねねを映しているのだろう。そんなことをぼんやりと思う。
だがそこで呆けている余裕などない。ねねへの畏怖にも似た驚きが消えたわけではないが、半兵衛はそれを一旦、意識の外に放り出した。そうした瞬間、半兵衛はいつもの冷静さを取り戻す。それぐらいのことができねば軍師など務まらなかった。
いずれ秀吉が戻ってくる。それまでにねねをここから逃がさなければ、この屋敷は彼女の血に染まることになるだろう。それを望まぬからこそ、半兵衛はここに来たのだ。
「わかっているのなら話は早い。荷物をまとめてここからお逃げなさい。当面の金子は僕が用意した」
「竹中様はお優しいんですね」
「そんな話をしている場合じゃないのはわかっているだろう? さあ、早く支度を」
「いいえ。支度はいりません」
だがそれでもねねは、焦った風も怖れる風もなく、それまでと同じように目の前の火を突いているだけだ。動く気配は全くない。
それどころか、きっぱりと言った。
「死ぬつもりでおりますから」
今度こそ愕然とする半兵衛に向かって、ねねは静かに目を細める。
「覚悟はできておりますから。だから支度もいりません」
「……なぜ」
何度か目を瞬かせ、再度驚きを押しのけた半兵衛の口からようやく出て来た言葉は、至極当然の疑問だった。
「君は自分の命が惜しくないのかい?」
「惜しいですよ。死ぬのは恐ろしいですし、命は惜しいです。できることならもっとあの人の傍にいたいと思いますし、叶う望みであれば……あのひとのややも抱きたかった」
秀吉の子が産みたい。それは子供好きのねねの長年の望みだった。どういうわけかなかなか子宝には恵まれず、近頃では神仏頼りか祈祷を受けることもあったらしい。
「だったらなぜ、君はそんなにも平然と自分の死を受け入れる!?」
秀吉と、自分と、二人の間の子との暮らし。そんな平凡な望みと、死ぬつもりだという決意の間にはあまりにも深い溝があるように思えて、半兵衛は我知らず声を荒くした。ねねの心の底がまるで見えない。
百戦錬磨の軍師のように落ち着き払っているのは、今や半兵衛ではなくねねの方だった。
「私は、あのひとに生きていて欲しいだけです」
「生き……て……?」