憧憬に煌く 赤の 赤
赤は、憧れの色だと。いつか、そう言った。
塞がりきれていない傷口から粘度の高い血液が滲み出るように。
気がつけばドロリと溢れ出した過去が目の前に姿を現すことがある。
ドロリとした、過去。
粉塵まうアジアの片隅で。それは人の形を取って現れた。
昼間に表れた幽霊のように。滑稽は感じるものの、恐れなどはまったくなく。
異質で、不安定だった。
いや。そう感じているのはおそらく自分だけだ。
過去の亡霊は誰に騒がれることなく、にぎわう市場で人波にまぎれている。
傍らには褐色の肌の娘がいる。
鮮やかな民族衣装から伸びた手は、亡霊の服の端を握り締め。
娘が持つ、手の平大の赤い輪が二人の目的を如実に語っていた。
それも、おかしな話ではない。
あれから、もう十年以上経った。
あれは事件と呼ぶほど大仰なものではない。少なくとも、世間にとっては。
結果だけを考えれば、日本の国籍を持った者が一人消えたということだけだ。
ただそれだけだ。
大衆の中のただの一人。
世間にとってはたいしたことじゃない。
行方不明者が年間どれほどいるのかなんて知りはしないし、知ったところでどうとも思わない。
すぐにその数字は無意味なものに変わる。
だから興味もない。
世界が多少歪もうとも、日常に異変がなければ世間は騒ぎはしない。
事件というのなら、あれから自分が手にかけてきた者の数の方が多少はそうと呼べるのかもしれない。
この十年間。
一時の快楽と多くの無為な時間。
この手に残ったものなどなにもない。
なくすことなどないと思っていた僅かな記憶も、夜を越すたびに薄れて擦り切れた。
だから、か。
ただ唯一、心に引っかかるものがなくなったから。
追われるままにこの地に来た。
混沌と粉塵と貧困と。
息をするには楽な国だ。
だからあの国から多くの死者が集まってくる。
虚ろな目をした屍が、日本人窟と呼ばれる寂れたビルのなかで、忘れかけた呼吸を浅く繰り返す。
死という暗黒には浸りきれず。
かといって日の光の下では生きられず。半端な暗がりの中に生息する。
その虚ろな闇に浸りすぎたから、日の光の中を歩くあいつを異質に感じるのだろうか。
「カナメ?」
闇から沸いてくるような、掠れた女の声。
濃厚な死の臭いを纏い、死を恐れながら、無為な虚勢を張り続ける女。
壁に開けられた穴のような窓に、冥府に繋がれている鎖を引きずりながら、近づいてくる。
異界への覗き穴に顔を近づけて。
もうほとんど見えていないであろう濁った眼球で、外界を凝視する。
ヒッ、と。女の喉から空気の引きつる音が聞こえた。
幽鬼を見たように、見開かれた目。血の気のない相貌は、もう死者の顔をしている。
女の乾いてひび割れた唇が、震えながら一つの言葉を音にせずに呟いた。
『み た ら い く ん』
唇がそう刻まれた。
昼、日向に現れた亡霊。
それの名前。
過去の名前。
塞がりきれていない傷口から粘度の高い血液が滲み出るように。
気がつけばドロリと溢れ出した過去が目の前に姿を現すことがある。
ドロリとした、過去。
粉塵まうアジアの片隅で。それは人の形を取って現れた。
昼間に表れた幽霊のように。滑稽は感じるものの、恐れなどはまったくなく。
異質で、不安定だった。
いや。そう感じているのはおそらく自分だけだ。
過去の亡霊は誰に騒がれることなく、にぎわう市場で人波にまぎれている。
傍らには褐色の肌の娘がいる。
鮮やかな民族衣装から伸びた手は、亡霊の服の端を握り締め。
娘が持つ、手の平大の赤い輪が二人の目的を如実に語っていた。
それも、おかしな話ではない。
あれから、もう十年以上経った。
あれは事件と呼ぶほど大仰なものではない。少なくとも、世間にとっては。
結果だけを考えれば、日本の国籍を持った者が一人消えたということだけだ。
ただそれだけだ。
大衆の中のただの一人。
世間にとってはたいしたことじゃない。
行方不明者が年間どれほどいるのかなんて知りはしないし、知ったところでどうとも思わない。
すぐにその数字は無意味なものに変わる。
だから興味もない。
世界が多少歪もうとも、日常に異変がなければ世間は騒ぎはしない。
事件というのなら、あれから自分が手にかけてきた者の数の方が多少はそうと呼べるのかもしれない。
この十年間。
一時の快楽と多くの無為な時間。
この手に残ったものなどなにもない。
なくすことなどないと思っていた僅かな記憶も、夜を越すたびに薄れて擦り切れた。
だから、か。
ただ唯一、心に引っかかるものがなくなったから。
追われるままにこの地に来た。
混沌と粉塵と貧困と。
息をするには楽な国だ。
だからあの国から多くの死者が集まってくる。
虚ろな目をした屍が、日本人窟と呼ばれる寂れたビルのなかで、忘れかけた呼吸を浅く繰り返す。
死という暗黒には浸りきれず。
かといって日の光の下では生きられず。半端な暗がりの中に生息する。
その虚ろな闇に浸りすぎたから、日の光の中を歩くあいつを異質に感じるのだろうか。
「カナメ?」
闇から沸いてくるような、掠れた女の声。
濃厚な死の臭いを纏い、死を恐れながら、無為な虚勢を張り続ける女。
壁に開けられた穴のような窓に、冥府に繋がれている鎖を引きずりながら、近づいてくる。
異界への覗き穴に顔を近づけて。
もうほとんど見えていないであろう濁った眼球で、外界を凝視する。
ヒッ、と。女の喉から空気の引きつる音が聞こえた。
幽鬼を見たように、見開かれた目。血の気のない相貌は、もう死者の顔をしている。
女の乾いてひび割れた唇が、震えながら一つの言葉を音にせずに呟いた。
『み た ら い く ん』
唇がそう刻まれた。
昼、日向に現れた亡霊。
それの名前。
過去の名前。
作品名:憧憬に煌く 赤の 赤 作家名:綴鈴