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憧憬に煌く 赤の 赤

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過去を語らない女だった。
ここで闇に溶け込んでいく人間は、とうに過去など溶解している者たちばかりだ。
この国の路地裏で声をかけられたそのときも。
お互いの名前も、過去も、聞きはしなかった。
ただ、国籍を問われた。国籍は通りすがりの奴にくれてやったと伝えると、日本語が話せるなら良い、と。
そうしてこの女に拾われた。
逃げていたわけではない。
恐ろしいものなどなかったから。
死にたかったわけではない。
それに意味はないから。
生きたいわけでもない。
続くから、そうしているだけだ。
明日、路地裏で朽ちるならそれでもいいと思っていた。
どうせどこにも意味などないのだから。
逃げる意味も死ぬ意味も生きる意味も。
暫くして、呼ぶ時に不便だからと名を問われた。
「要」と答えたのは、改めて名を考えるのが面倒だったからだ。
世界のどこかにはもう『刃霧要』という人間が存在しているはずだ。
女の名は聞かなかった。
必要がないから。
なのに、女は語った。
日の光の下を歩く日本人との関わりを。
どんな出会いをして、どういう日々を過ごしたか。
そして、会いたいと。搾り出すように、言葉を漏らした。
女の薄れて闇に解けようとしていた輪郭は、情念で縁取られる。
執着が、闇を引き寄せたのか、死の臭いはいっそう濃度を増した。
執着がないからこそ、死の闇はそこで足踏みをしていた。
生きる屍だったからこそ、死にはしなかった。
感情が廻りだしたなら、もう朽ちるしかない。
生きるということは、死ぬことだ。
「結婚、するのかな」
瞠目する女に返す言葉はない。
市場を行く二人を見れば。
その目的を量れば。
その結論に容易にたどり着く。
「あの娘、赤いブレスレット持ってた」
男の袖を引き、娘が覗き込んでいたそれは、この国では珍しいものではない。
多くの女が装飾として身につけている。
「赤は花嫁の色。赤は、憧れの色」
その色のブレスレットは幸せの象徴なのだと、女は苦しげに言葉を漏らす。
憧憬と現実と未来と絶望と。思い出すものはろくなものではない。
ヒッと一つ、女の喉が鳴いた。
かび臭い寝床で薄いシーツに包まりながら。
女は枯れ木のようにやせ細った体を抱きしめる。細かく震えているのは、腹のそこから湧き上る希望を、身から這い出る死神を押さえ込んでいるようにも見えた。
暗闇に慣れた瞳に、光は苦痛を与えるように。
淀んだ現実に、清廉な過去は拒否反応を起こす。
「・・・カナメも、赤が似合いそう」
搾り出すような声は、朝よりも弱弱しく。
末期の言葉のようにも聞こえた。
「好きだったわけじゃ、きっとない。でも、会いたい。・・・憧れてた。だから・・・」
だから、のその先は言葉にはならなかった。
事切れるように、闇に沈んだ女は浅い呼吸を小刻みに繰り返している。
もう長くはない。
それは出会ったころからわかっていたことだ。
この暮らしの中で、死をかぎ分ける嗅覚だけは鋭くなった。
もうこの女からは死の臭いしかしない。
女が望んだことは一つだ。
『最期に独りは嫌なのよ』
看取って欲しい、私のもてる全てをあげるから。
殺して欲しいということか、と問うと『看取ってくれるなら』と、疲れたように笑った。
殺しはしなかったのは、意味がないからだ。
女の持ち物は、この部屋と僅かな金銭。
そのどちらも欲しいとは思わなかった。
それでも、ここにいる方が面倒が少ないい。
だからここにいることを選んだ。
面倒ならば、いつでも出て行ける。
やれるのはこの部屋だけで、残った金銭は全て寄付して欲しいと女が言ったのはいつのころだったか。
たしかあの日も、女は覗き穴から光の世界を覗いていた。
今日と同じように、市場を覗いていた。そして、口にした寄付先は。
あの、路地から数ブロック先にある国際慈善団体。
ヨーロッパの貴族や企業が出資しあって立ち上げられた団体だ。
国の支援もあって、この国で一番有名な組織。
知って、いたのだろう。
けど知らせていないのだろう。
ほんの少し、逡巡する。
弾を相手の額に打ち込む時に戸惑ったことはない。
命乞いにも、指先は動きを止めなかった。
言葉は無意味で、無感動だ。

通じる相手は、僅かしかいなかった。
作品名:憧憬に煌く 赤の 赤 作家名:綴鈴