この、愛しき世界
すべての人間に祈りなど捧げられない。
帝人は、帝人の形成する小さくも暖かな世界を守ることだけで手一杯だ。それ以上のものを守ろうとしたって、溢れてしまって共倒れになるのが落ちだ。
それが分かっているのに、それでも、悲しいものは悲しいし、悔しいものは悔しい。
帝人は病棟の屋上から、その下の世界を見つめる。小さく影を作る木々のざわめきを、ちょこちょこと歩いていく小さな子供とその親の、微笑ましい動きを。風に吹かれて飛ばされてゆく黄色の風船。照りつける太陽が金属に反射する光。
生きている、世界。
帝人がカウンセラーとしてこの病院に配属されてから3年が経つが、未だに直面する他人の「死」には慣れなくて戸惑うばかりだ。例えば昨日話したばかりの鬱病の患者が、今日自殺したと聞かされる衝撃は、計り知れない。
大きく息を吐いて、鎮めようとする心臓が、それに逆らって大きく脈打つ。
すべての人間を救えるわけがない。
それは帝人がこの職業についてからずっと、自分に言い聞かせていることだ。死にたい、苦しいと思っている患者を、どうにかして宥めて、生きることの意味を考えさせて、そうやって必死になっても、ほんの少しの些細なきっかけで、人間はいともたやすく死んでしまえる。
そう、昨日の患者のように。あるいは、今まで帝人の患者だった、何人かの故人のように。
どうしてこの手には、限りがあるのだろうかと、帝人は自分の両手を見つめる。誰かを救いたいと願ってカウンセラーの道を歩んできたのに、直面する事実はあまりに冷たい。何人か必死に掬い上げても、また戻ってくる人もいる、こうして二度と帰らない人もいる。本当に一握り、救えるのはそれだけなのだ。
それだけだって、分かっているのに。
「帝人君」
うつむいた帝人に、声がかけられたのはその時だった。
はっとして顔を上げれば、そこに一人の男が立っている。彼のことを、帝人はよく知っていた。というか、帝人くらいしか知る人間はいないのだと思う。彼はいつもこの屋上に居て、帝人がこうして時折落ち込んでいるときに声をかけてくる。
彼は、人間ではない。
黒いコートを翻し、それと相反するような真っ白な羽がその背から生えているのだ。
初めて会ったとき彼は、自分のことを天使だと名乗った。
「・・・臨也、さん」
「またそんな顔してる。誰か死んだの」
「・・・」
「分かりやすいよね、帝人君って」
人は死ぬのが当たり前なのだと、臨也は言う。天使はそのためにいるとも言う。彼はこの病院の専属の天使であり、この病院で死んで、天国へ良く予定の人間を送り届けるのが役目だという。
人間は死ぬのが当たり前だ。だから、死んでいくのを嘆くことは理解出来ないと、臨也は言う。その純白の羽をそっとたたんで、臨也は帝人の隣に座った。真夏の炎天下のせいか、屋上のベンチには二人しかいない。
「死んだ人間を嘆くなんて、もうやめなよ」
その白い指先が、そっと帝人の髪を掬う。
ひやりとして心地良い体温が、帝人のこめかみから頬を撫でた。
「・・・そんな簡単に、いきませんよ」
「君は医者に向いてないねえ」
「カウンセラー、です」
「おんなじでしょ。医者は悪いところを治す人。君も、心の悪いところを治すために此処にいるんでしょ」
「そうですけど・・・」
帝人は別に、外科医のように難しい手術をこなすわけではない。帝人が他人のために使える武器は、この声と言葉だけだ。それだけで心に巣くう病魔を倒さなくてはならない。
あまりにも、無力だ。
「この手が、もう少し大きかったら」
帝人は、ゆっくりと自分の手を太陽にかざしながら言う。
「もう少し多くの人を救えますか。もっと、たくさんの心を、救えますか」
願うようにささやいた言葉を聞いて、臨也はその伸ばされた帝人の手を掴んだ。
「ねえ帝人君、大事なことをわすれてる。君は人間だよ、ただの人間。天使でもあくまでも神様でもない」
「知ってます」
「そうだね、知ってるけど、分かってはいない。ただの人間にそんな大きな手があったら、その手のひらの中身の重さで、君が潰れてしまうよ」
「それは・・・」
言葉に詰まった帝人に、ね?と臨也は続ける。
「例えば俺はさあ、人間が好きだ、愛してる。それはもう天使とか人間とか、そういう種族の垣根を超えて、人間という一つの種への、飽くなき博愛だ。人間は実に面白い。その感情を、行動を、もっとよく知りたい。そのためには別にその人間を追い込んだって構わないと思っている。だって俺がこんなに求めて愛してるんだもの、人間だって俺を求めて愛するべきでしょ?その愛する俺に追い込まれて死にゆくってのはどんな気持ちだろうね。そう言うのをすごく知りたいよ、ゾクゾクするねえ、絶望?それとも本望?どっちが最後に満たされるんだと思う?まあどっちだっていいんだけど。大事なのは俺が人間を愛してるってことで、だから人間も俺を愛するべきだってことだ」
わかるかなあ、と臨也が言う。そんなの、分かるわけがないと帝人は思う。なんていうか、すごく自分勝手な考え方だ。愛してるはずの人間の意見をきっぱりと無視している。
「・・・あなた中二病っぽい思考回路をお持ちですよね」
「ちゅーにびょう?なにそれ、心の病気の一種?俺が人間の病気にかかるわけないでしょ」
そういう意味じゃない、と言いたいのを飲み込んで、帝人は臨也を見た。つかまれたままの手のひらを離して欲しいような気がするけれど、なぜかそう言えない自分をあえて無視する。
目が合うと、臨也は緩やかに目を細めて、クシャりと笑った。
その顔を見ると帝人は、何も言えなくなって言葉を飲み込んでしまうことが多い。
「ようするにさあ、俺は君を愛してるよ。だから君も俺を愛するべきだよね」
臨也は笑う。
ただ、当たり前のように。
「だから、無理しちゃ駄目」
臨也はただ、慈しむように帝人を見つめて、手を握っていない方の左手でぎこちなく帝人の頭をなでる。その心地よさに泣きそうになって、帝人はぐっと唇をかみしめた。
あなたさっき、愛してるから追い詰めてもいいとかなんとか、言ってませんでしたっけ?矛盾してますよ、なんて指摘しようかしまいか迷ったけれど、臨也のことだからきっと気づいてないだろと判断して飲み込んだ。
風が強い。
午後の日差しは容赦なく帝人の後頭部をじりじりと焼く。
太陽の眩しさに目を細めれば、世界が滲んだ気がして瞬きをした。
帝人のなめらかな頬を滑り落ちたその涙、ひとしずくを、臨也はとても美しいものを見るような目で見つめる。
「・・・不思議だね、涙なんて誰の見たってなんとも思わなかったけど」
臨也は羽を広げて、その影になるように帝人を抱き寄せると、小さく唇の端を上げてみせた。
君のだって思うと、甘そうだなあ。
つぶやきはあまりにも小さく、え?と聞き返す前に生暖かい舌が頬をかすめた。驚いて目を見開いた帝人と目を合わせた臨也が、その目を閉じる。
接触は、一瞬。
「・・・っ!?」
触れた唇をとっさに手のひらでかばい、真っ赤になって臨也を押し返す帝人を、臨也は困ったように見つめて言葉をこぼす。
「困ったなあ」