Strong Enough
「別れよか」
お前に付き合うん、もうしんどいねん。
静かな微笑を湛え、普段と変わらない抑揚で告げられて、一瞬、くらり、と眩暈を覚えた。
あいつは俺の返事も待たずに云うだけ云うと、そのまま踵を返し歩いて行く。
「待て」、その一言も喉が妙に粘って絡み付き発せない。その無気力に反らされた肩を掴んで引き留めたいけど、足は根が生えたようにぴくりとも動かなかった。
遠ざかる、寂しい背中に追い付きたい。
諦め、倦み疲れたその眼に自分を映し込みたい。
行くなと、縋りついて見せればその足は止まるのか。
焦りと焦燥がじりじりと身を焼き、胸の奥から溢れ出す激情に押し流される。
傍に居て欲しいと。
手を放すなと心は叫んで、離れ行く姿に嫌だと子供のように泣いている。
けれど、実際は声も発せず、指先すら動かず、涙が浮かぶことも、なかった。
きっと、女のように泣いて縋れば、歩みを止められたのかもしれない。好きだと、行かないで、放さないで、そんな甘ったるい言葉を使えば、離れることもなかったのかもしれない。
けれど、出来なかった。
それが出来るならば、もう、馬鹿らしくて、『跡部景吾』なんてやってられない。
結局、最後の最後に自分が選んだのは、このちっぽけなプライドだったということか。
なんという結末。今時三流のドラマさえ使わない。
安易過ぎて、おかしさが込み上げてくる。
それでも、胸が痛くて、苦しくて、喪失の危機に悲鳴を上げる。
「忍足……」
ようやく腹から押し出されるように洩れた呼び掛けも、小さくなった背中には届かない。
哀しさと、絶望と、諦めを全て呑み込んで、遠い姿を消すように、眼を閉じた。
いつも使っている目覚ましの音で眼が覚める。反射的にそのスイッチを止め、ぼんやりとした視線を天井に向けた。
一瞬、ここが何処だか判らず辺りを見渡したが、ほどなく自室と判り安堵の息を吐く。
嫌な夢を見た。
酷く嫌な、夢。
未だ現実には起こっていないことを、夢で想定しては傷付いている。なんて、消極的な自傷行為。
深い溜息を吐いた。今度は安堵ではなく、身の底にある瘧を吐き出すように。
別れよう。
夢で告げられたことを思い出し、息が詰まった。その言葉になすすべもなく、ただ木偶のように見送っただけの自分。小さく霞んでいく背中が胸に痛かった。
跡部は、つんと痛みを訴える眼鼻を隠すように腕で覆った。隠しきれない唇が細かく震え、声なく呟きを形取る。
夢なのに、その情景が眼の裏でこんなにも鮮やかに再現され再び息が詰まった。この夢のような出来事が、いつか来るような気がして、柄にもなく不安に怯える自分を自覚し、哂おうとして失敗する。
夢ごときで、情けない。
そう思うけれど、この自分が、こんな些細なことで動揺するほど、どうしようもなく恋をしているのだと思い知って、不覚にも、涙が出た――――。
「あれ?なんや跡部、顔色悪いんとちゃう?」
早朝練習に珍しく少し遅れてやって来た跡部に目敏く気付き、忍足は挨拶をする前に気遣わし気な表情で声を掛けた。跡部は今朝見た夢のこともあって、忍足と目を合わせられずにいる。跡部の眼を真っ直ぐに見詰めてくる視線から、微妙にそれた辺りで固定した。
「気のせいだ」
言葉少なにかわそうとしたが、強く腕を取り引き寄せられ、勢い余って、忍足に抱き込まれた形になる。瞬間、ふわりと忍足の暖かな体臭に包まれて、鼓動が一気に早くなった。歓喜ではなく、不安に慄くそれ。ぎしぎしと軋むような不快な音。昨夜見た夢が、プレイバックする。
「嘘吐くなや。そない青い顔してからに。無理せんと部室で休んでろや」
忍足は傾いた跡部の体を支えながら、上から顔を覗き込んだ。そして眼を見張る。
「跡部……?」
跡部はその声にはっと我に返り、忍足の腕から逃れた。
「少しだるいだけだ。大したことはねえよ」
そう告げる声はもう何時もの跡部で、忍足が一瞬だけ見た表情は見事に掻き消えている。けれど誤魔化されるにはあまりにも意表を突かれ過ぎて、言葉なく見詰めることしかできない。
「早く練習始めろ」
そんな忍足に構わず、跡部はそう云って離れようとする。
忍足は顔を顰めて、まるで逃げるように離れようとする跡部の腕をもう一度掴み、無言で歩き出す。
「ちょ、忍足!放せっ……」
驚いた跡部が制止の声を上げるが、忍足の力は緩まない。
気に入らなかった。
何があったのかは判らないが、自分に何も告げようとはしない跡部の態度が。彼らしくない、不安定に揺れる眼をして、心細そうな顔をしたくせにそれでも強がって、何も話そうとしてくれない。そんなに自分は頼りなく見えるのだろうか。
跡部に関わることならどんなに小さなことでも教えて欲しいと願うのはわがままなのか。
忍足は水臭い跡部に、少しの哀しさと寂しさを感じながら部室へと足を踏み入れた。
跡部を中へと誘い静かに扉を閉める。
戸惑う跡部を安心させるように小さく笑いかけ、部屋の奥にある四人掛けソファに腰を下ろし、一人分間を開けた所に跡部を座らせた。跡部は無意味に空けられた空間の意味が判らず訝しんでいると、横から忍足の手が伸びて頭を浚われる。
「!何っ」
反転する視界に眼を瞑り、倒れる衝撃に備え歯を食いしばった。しかし、後頭部を襲う筈の痛みはなく、変わって首根に確かな弾力を持った枕を宛てがわれたような感触を覚え眼を開くと、正面に、困ったような顔をした忍足の顔があった。
忍足は、自分の膝元にある跡部の髪を無意識に梳きながら、黙って跡部の顔を見ている。
跡部は、自分が忍足を膝枕にしているのだと判って、思わぬ恥ずかしさに起き上がろうとした。が、身を起こす途中、そのまま忍足に抱え込まれてしまう。どうやら放す気はないらしい。跡部は諦めて、忍足の肩口に額を乗せ眼を閉じた。
じっとしていると、自分よりも高い忍足の体温が伝わってきて、酷く安心する。
何時の間に、このぬくもりが身に染み付いたのだろう。そんなに遠いことではないはずなのに。
ゆっくりと背中を撫でる手や、抱き締める腕、支える胸、寄せられる頬。どれ一つとして失えるものではない。
この優しい場所で、ようやく呼吸ができる。そんな、依存にも似た安心感に歯痒くも、切なくも感じるがそれを上回る幸福感に、眼を閉じる。例えどう思っても、失えない物がある。そういうことなのだろう。
跡部は、自分の態度に不安を感じているであろう忍足に話すことにした。正直に話すには、かなり羞恥に耐えねばならないが、彼を不安にさせるのは本意ではない。
「夢で……」
「夢?」
跡部の口から洩れた、意外な単語に、一瞬背中を撫でていた手を止めたが、気を取り直し再び動かした。
跡部は忍足の肩に益々顔を埋め、云い難そうに口を開く。
「……お前と別れる夢、見た。俺の前からどんどんお前が離れていくのに、俺は喋ることも、追い掛けることもできなくて、ただ、つっ立ってた」
こんなことで動揺するなんてどうかしている。きっと、忍足は呆れているに違いない。自分でもこれほど女々しい自分が居たのかと忸怩たる心境なのだから。
作品名:Strong Enough 作家名:桜井透子