Happy Birthday
熱い、暑い。クーラーを止めた部屋は熱気に満ちていたが、うっすらと汗ばんだ裸でいるにはまだ耐えられる暑さだった。だが、小さくうめく先輩を気遣い、俺は枕元のリモコンを探した。
先輩の中で癒されていた気がした。俺を慰めてくれるわけではないが、暖かくて、深い海のようなそこは心地よく。俺を受け入れ、狭い穴が締め付ける様は、苛烈な先輩そのもののようでありながら、俺を暖かく包み込んでいる錯覚すら感じる。
逃避なのは理解している。あのメールから逃れたいだけだ。あのメールに何を思い、毎年兄は出し続けるのか、一向に慣れることの出来ない自分への歯がゆさ、全てを忘れたい、考えたくないという思いを先輩は包み込んでくれる。
本人は望まなくとも、先輩は一時の安らぎを俺に与えてくれた。
他人の温もりが心地よくて離れがたいと、こんなにも思ったことはない。それでもこの人に縋るのは、その理由があの兄に由来していると思うと不愉快でしか無く、ごろんと先輩から身を離した。
「青葉君なにかあったの?」
「えっ?」
眠っていると思っていた先輩が、そっと口を開いた。仰向けで二人ともに天井を見上げている。同じところを見ているなんて、不思議な気分になる。
「メールきてからおかしいよ」
「先輩には適いませんね」
俺のことなど気にしていないと思っていたが、先輩にはバレバレであったらしい。見ていないようで見ているのか、観察眼に優れているのか、先程も快楽に流されたのかと思っていたが、彼は彼なりに俺を案じていたのかもしれない。そう思ってしまいたくなる。
「兄貴からメールがくるんですよ」
「いいことじゃないの?」
先輩は兄と俺のことを知らない。兄が何をしたのかも知らない。知ってしまえばこんなことは言わないだろうし、俺とこんなこともしていないだろう。そう思えば、なんとも不安定な関係だとも思う。俺達の間は風で吹き飛ぶような脆いモノでありながら、人一人を釣り上げる強度を持つ蜘蛛の糸みたいだ。そして、名前を持たぬ関係はただ宙ぶらりんに漂うだけでその存在を見える形にはしない。
「どんなに楽しい一日でも、日付変わり近くにくるそれで台無しなんです」
兄にアドレスを教えた事はなかった。アドレスを変えても母が教えているらしく、兄には直ぐに伝わってしまうのだ。それを咎めることは出来ずに、ただ年に一回のそのメールを俺は我慢し続けた。
兄は抵抗しないと言うことを許容したと受け取るのだろうか、諦めたということは決して受け入れることと同じではない。ある意味拒絶なのだ。それを彼は子供の頃から理解しなかった。
「でも……、毎年なんだよね? お兄さん青葉君のこと気にしてるんだよ」
「いい意味じゃないと思いますけどね」
「…………?」
先輩の読みは当たっている。兄が俺を気にしているのは確かだ。それは先輩が思っているような理由ではない、もっとドロドロとした重く醜く、激しい感情の吹きだまりだ。
「返事は出すの?」
「一度もないです」
そんな選択肢初めから浮かばなかった。いつも直ぐに削除してしまっていたから、受信拒否すらも設定出来ずにいた。ただ、うっすらとした記憶の中で、送信アドレスが違っていた気はした。
「なら、出してみたら? 止まるかもよ」
「あっ、それいいかもしれません」
その発想は思いもつかなかった。毎年、毎年、繰り返されるのならば崩して見るのもいい。枕元の携帯には、今回はまだあのメールが残っている。一度返信して見るのもいいだろう。
「それでも続くなら……、毎年僕もメールするよ」
「それは 嬉しいです。先輩」
まさかそんなことをこの人が言い出すとは思わなかった。俺になど興味が無く、無関心だと思っていた。実行されれば、先輩は毎年俺の誕生日にメールを出すこという縛りを得るのだ。一度言ったことは、曲げない人だから何があっても送り続けるだろう。
それはこの傷すらも付けことが出来ぬほど歪んだ相手に、なにか一つ鎖を付けた気がした。細い、細い鎖だが確かにそれは先輩と俺とを繋いでいる。
「そう? でも いつか恐怖に変わるかもよ」
ギシっとベッドが軋みと共に先輩の顔が目前に洗われた。意図的なのか、それともいつものように気付いていないのか、歪な笑顔を浮かべている。
恐怖。確かに、もし俺と先輩の仲が壊れようとも彼は送り続けるだろう。そういう人なのだ。その時はそのメールは恐怖の対象となる。兄もそうだ。あれだけしたのに、未だに送り続けることが怖いのだ。その妄執や執着心を恐れているだけであって、兄という存在にではない。
俺はこのときどんな表情をしていたのか自信がない、ただそれを隠すように、そして薄い微笑に惹かれるようにその口許に唇を寄せていた。
【終】
HappyBirthday/Heaven send hell away
作品名:Happy Birthday 作家名:かなや@金谷