Take Me Out to the Ball Game
他に見たいものもなくて、佳主馬はたまたま見つけた高校野球の中継を眺めていた。甲子園から届けられているストリーミング放送は今年から始まったらしく、OZの中でも話題になっていた。一球投げる度にOZに作られたコミュニティの文字が物凄い早さで更新されていく。佳主馬のアバターが大会に出たときと同じような速度だ。それだけ注目されていたことを佳主馬は知らなかったし気にしたこともない。試合はまだ始まったばかりらしく、スコアボードはまだ空欄が多かった。1の白い文字の下に0が2つ並んだのが映し出されたが、すぐに試合の映像に変わる。画面角に新しく黄色い丸が増えた。歓声が上がって佳主馬はキーボードを叩いていた手を止める。白く小さなボールが緑の芝の上を転がった。またコミュニティのレスが一気に増えて消える。しばらく眺めているとどうやらコミュニティ内だけで通用する言葉があるらしくいまいち彼らが言っていることがわからない。もっともそれ以前に佳主馬は野球をやったことがないし、ルールもよく知らない。小学校に上がった頃に父親が何度かキャッチボールしようと言ってきたことはあったが、残念ながらこれまで叶えられたことはない。そもそも夏の炎天下の中をわざわざ動き回らなくてもいいじゃないか、と言うのが佳主馬の見解なのだがきっと好きな人間にしてみればこうでなければいけないのだろう。ちょうど次の選手が快音を響かせたところだった。
「佳主馬ー?」
母親の声がして佳主馬は開けっ放しにしていた扉の方を振り返った。ヘッドホンを外すとちょうど入口に立った母親が佳主馬に何かを言おうとして画面に映った試合に意外そうな顔をする。
「なに、」
「あら、珍しいじゃない」
「別に、」
「…ちょっと出掛けてくるから」
わかった、と返すと母親は笑みを浮かべて立ち去ろうとしたが、すぐに足を止めて再び佳主馬を見た。ヘッドホンを付けようとしていた佳主馬はその声に振り返る。
「そういえば、了平が上田高校に推薦決まったんですって」
首元のヘッドホンから漏れ聞こえた歓声が大きくなって佳主馬は返事をしないまま母親に背を向けた。興味が無いと判断したのか、母親は少しだけ眉尻を下げて笑うと部屋をあとにする。少しだけ音を大きくして、佳主馬はヘッドホンを付けた。応援団のバスドラムの音が佳主馬の心臓に響いて、心音が少しだけ早くなる。佳主馬はキーを叩いてメールボックスを開いた。新着はない。ちょうど中継は投手が三振を取ったらしく実況の声も興奮していた。
『必ず、メールするから』
約束を忘れてしまったのだろうか、と佳主馬は空っぽの受信箱を見て口を尖らせる。スコアボードにはまた新しい数字が増えて試合も中盤に差し掛かる。マウンド上の投手がアップで映し出されて、どこか彼に似た風貌をしているせいかその声が蘇る。ただでさえ口下手で野球のことしか考えていないと思っていた了平は親戚で一番年が近かったこともあって昔から佳主馬の遊び相手だった。最も小学校に上がった頃から野球を始めて、小学校の少年野球クラブに入ってからは夏休みに上田に行くと庭で父親の克彦とキャッチボールをしていた姿を何度か見掛けるようになった。
『佳主馬もやろうよ』
『やだ』
何度もボールを投げて寄越してきたけれど、佳主馬はそれを受け取らなかった。そのたびに彼は困ったように笑って、じゃあ今度なと勝手に叶えられない約束を押し付ける。色白だった自分に対して彼の肌は会うたびに黒くなっていてどんどん佳主馬が知っていた彼ではなっていくような気がした。シニアに入ってからはレギュラーになったらしく急に逞しくなった。それが成長することなのかと佳主馬は最近始めた少林寺拳法のせいで少しだけ焼けた、けれども細い自分の両腕を見た。残念ながら了平のように理想的な筋肉は付かない。きっと高校に上がってどんどん成長していく彼は、画面に映る選手たちのように眩しくなるに違いない。最後に直接会った去年の夏も同じように息抜きにキャッチボールをしていた彼は佳主馬にボールを差し出した。
『やらないって』
佳主馬は眉間に皺を寄せて答える。ちょうど自分のアバターがようやくコツを掴んで強くなって来ていたところで、OMC内でもそこそこ名前を知られるようになったのに夏休みはほぼ毎日のように開かれる大会に出ないわけがない。腋に抱えていた小さなノートパソコンを持ち直すと了平の視線がそれを捉えて、佳主馬に少し淋しそうに笑った。そういえば、子供の頃は了平は何かと自分の両手を引っ張っていてくれた気がする。兄弟がいなかった彼には弟のような存在の佳主馬に対する兄としての使命感だったのかどうかは知らない。そのあと野球と、彼に弟が生まれたせいで微妙にその関係は変化したような気がした。佳主馬が一人で納戸にいることは、了平にとってはあまり好ましいことではなかったらしい。けれどもそれを引き止める手を僅かに伸ばしただけで、佳主馬には届かない。野球の中継はいよいよ終盤に入り、画面の向こうのすべてが最高潮だった。どうやらどちらかのチームがビッグイニングを迎えたらしく応援団のトランペットが何度も同じ旋律を繰り返している。
『じゃあさ、試合見に来いよ』
すでに廊下を歩き出していた佳主馬は思わず足を止めて彼を振り返った。短く刈り上げた髪を照れたように大仰に掻いて笑っていた彼の顔が少し赤い。一度驚いて大きく開いていた佳主馬の目は幾分か細くなって、彼を見つめる。
『甲子園が良い』
すぐに驚いた声が庭に響いて、池の鯉が跳ね上がりそうだった。きっと彼にとっては甲子園のマウンドはそれくらい遠いものだったのだろう。OMCのチャンピオンベルトのように、手を伸ばしてもかすりもしない遠い位置。けれどもどうせならそのほうが良い、と佳主馬は口の端を少しだけ上げた。しばらく驚いていた了平がびっくりさせるなよ、と心臓に手を当てて息を整える。
『甲子園か…』
了平が思わず空を見上げて呟いた。今日の上田は快晴で、水平線のあたりに入道雲が見えるだけで上空には雲一つない。雲の上の存在も今日ならば手を伸ばせば落ちてきそうだ。佳主馬も同じように空を見上げて、それからまだぼんやりしている了平を見た。少し重いノートパソコンを抱えなおす。
『勝負だよ、どっちが先か』
再び佳主馬を見つめる了平の顔が少しだけ驚いて、けれどしっかり頷いたのを覚えている。気付けば試合終了のサイレンが鳴り響いていた。なかなか良いシーソーゲームになっていたらしく、両者に拍手を贈るコメントがコミュニティ内でめまぐるしく流れていた。次の試合が始まる、と佳主馬は画面を切り替えてOMCの参加受付にキーを叩いた。
***
「佳主馬ー?」
母親の声がして佳主馬は開けっ放しにしていた扉の方を振り返った。ヘッドホンを外すとちょうど入口に立った母親が佳主馬に何かを言おうとして画面に映った試合に意外そうな顔をする。
「なに、」
「あら、珍しいじゃない」
「別に、」
「…ちょっと出掛けてくるから」
わかった、と返すと母親は笑みを浮かべて立ち去ろうとしたが、すぐに足を止めて再び佳主馬を見た。ヘッドホンを付けようとしていた佳主馬はその声に振り返る。
「そういえば、了平が上田高校に推薦決まったんですって」
首元のヘッドホンから漏れ聞こえた歓声が大きくなって佳主馬は返事をしないまま母親に背を向けた。興味が無いと判断したのか、母親は少しだけ眉尻を下げて笑うと部屋をあとにする。少しだけ音を大きくして、佳主馬はヘッドホンを付けた。応援団のバスドラムの音が佳主馬の心臓に響いて、心音が少しだけ早くなる。佳主馬はキーを叩いてメールボックスを開いた。新着はない。ちょうど中継は投手が三振を取ったらしく実況の声も興奮していた。
『必ず、メールするから』
約束を忘れてしまったのだろうか、と佳主馬は空っぽの受信箱を見て口を尖らせる。スコアボードにはまた新しい数字が増えて試合も中盤に差し掛かる。マウンド上の投手がアップで映し出されて、どこか彼に似た風貌をしているせいかその声が蘇る。ただでさえ口下手で野球のことしか考えていないと思っていた了平は親戚で一番年が近かったこともあって昔から佳主馬の遊び相手だった。最も小学校に上がった頃から野球を始めて、小学校の少年野球クラブに入ってからは夏休みに上田に行くと庭で父親の克彦とキャッチボールをしていた姿を何度か見掛けるようになった。
『佳主馬もやろうよ』
『やだ』
何度もボールを投げて寄越してきたけれど、佳主馬はそれを受け取らなかった。そのたびに彼は困ったように笑って、じゃあ今度なと勝手に叶えられない約束を押し付ける。色白だった自分に対して彼の肌は会うたびに黒くなっていてどんどん佳主馬が知っていた彼ではなっていくような気がした。シニアに入ってからはレギュラーになったらしく急に逞しくなった。それが成長することなのかと佳主馬は最近始めた少林寺拳法のせいで少しだけ焼けた、けれども細い自分の両腕を見た。残念ながら了平のように理想的な筋肉は付かない。きっと高校に上がってどんどん成長していく彼は、画面に映る選手たちのように眩しくなるに違いない。最後に直接会った去年の夏も同じように息抜きにキャッチボールをしていた彼は佳主馬にボールを差し出した。
『やらないって』
佳主馬は眉間に皺を寄せて答える。ちょうど自分のアバターがようやくコツを掴んで強くなって来ていたところで、OMC内でもそこそこ名前を知られるようになったのに夏休みはほぼ毎日のように開かれる大会に出ないわけがない。腋に抱えていた小さなノートパソコンを持ち直すと了平の視線がそれを捉えて、佳主馬に少し淋しそうに笑った。そういえば、子供の頃は了平は何かと自分の両手を引っ張っていてくれた気がする。兄弟がいなかった彼には弟のような存在の佳主馬に対する兄としての使命感だったのかどうかは知らない。そのあと野球と、彼に弟が生まれたせいで微妙にその関係は変化したような気がした。佳主馬が一人で納戸にいることは、了平にとってはあまり好ましいことではなかったらしい。けれどもそれを引き止める手を僅かに伸ばしただけで、佳主馬には届かない。野球の中継はいよいよ終盤に入り、画面の向こうのすべてが最高潮だった。どうやらどちらかのチームがビッグイニングを迎えたらしく応援団のトランペットが何度も同じ旋律を繰り返している。
『じゃあさ、試合見に来いよ』
すでに廊下を歩き出していた佳主馬は思わず足を止めて彼を振り返った。短く刈り上げた髪を照れたように大仰に掻いて笑っていた彼の顔が少し赤い。一度驚いて大きく開いていた佳主馬の目は幾分か細くなって、彼を見つめる。
『甲子園が良い』
すぐに驚いた声が庭に響いて、池の鯉が跳ね上がりそうだった。きっと彼にとっては甲子園のマウンドはそれくらい遠いものだったのだろう。OMCのチャンピオンベルトのように、手を伸ばしてもかすりもしない遠い位置。けれどもどうせならそのほうが良い、と佳主馬は口の端を少しだけ上げた。しばらく驚いていた了平がびっくりさせるなよ、と心臓に手を当てて息を整える。
『甲子園か…』
了平が思わず空を見上げて呟いた。今日の上田は快晴で、水平線のあたりに入道雲が見えるだけで上空には雲一つない。雲の上の存在も今日ならば手を伸ばせば落ちてきそうだ。佳主馬も同じように空を見上げて、それからまだぼんやりしている了平を見た。少し重いノートパソコンを抱えなおす。
『勝負だよ、どっちが先か』
再び佳主馬を見つめる了平の顔が少しだけ驚いて、けれどしっかり頷いたのを覚えている。気付けば試合終了のサイレンが鳴り響いていた。なかなか良いシーソーゲームになっていたらしく、両者に拍手を贈るコメントがコミュニティ内でめまぐるしく流れていた。次の試合が始まる、と佳主馬は画面を切り替えてOMCの参加受付にキーを叩いた。
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作品名:Take Me Out to the Ball Game 作家名:ナギーニョ