ルービックキューブとお兄さま
失敗した。しくじった。へまをやらかした。
同じような意味を持つ言葉の羅列が脳内をぐるぐると巡り続けている。
そうする合間にも、あるはずのないもの寂しさから右手の指が癖のようにかすかに動いている。
ここしばらく、ずっと握り続けていたものがない。
何度目かになるため息を零し、スイスはぼんやりと、眼下に広がるグラウンドへ視線を流した。
時には競技場へと姿を変えるそのグラウンドは、周囲を階段状の座席がぐるりと囲み、その上にはさまざまな木々が植えられベンチも備えられ、生徒の憩いの場にもなっている。
そんなベンチの中でも一番隅にある、目立たない場所を確保し、スイスは悩ましげに眉間に皺を寄せていた。
今日、場を確保しているのはサッカー部のようだ。見慣れた顔が幾人も混じっている。愛想を振るように手をかざす者もいたが、スイスは全てを無視しては一人、内心の苛立ちを持て余していた。
近頃はまりこんでいるものがある。
ルービックキューブというものだ。
子供の遊びものと思いこんでいたが、近頃の品は変形したものやら複雑な多面体になったものなど、年齢を重ねても楽しめるものが多く出回っていた。
手慰みにとひとつ借りてみたのが始まりだった。
色を綺麗に揃えてみたり、指定の柄を作ってみたり、時間はかかったが丁寧にやればどうにかなった。
借り物では物足りなくなり、自分で買い求めたのが運の尽き。どっぷりとはまった。
課題や授業の合間に、寝る間を惜しんで面を揃えることに熱中した。息抜きが出来る授業では、こっそりと授業中にまで手を出すようになってしまった。
自分の中でも、そろそろ警鐘が鳴りかけていた。
そんなおり、オーストリアが講師を務める音楽の授業で手作業が見つかった。
一度目は目線で注意をされるだけだった。二度目は無言で、通りすがりに頭を軽く叩かれ、授業後に「次はありませんよ」と忠告された。
さすがにこれはまずいと思い、自分でもしばらくは控えるようにした。大人しく、授業の空き時間だけに触れるように態度を改めた。
だが、三日前のことだ。休日の夜から挑戦していた新しい面揃えが終わらず、学内へ持ち込んで進めていた。
あと少し、あと少しで揃いそうなところまでたどり着いた。
そんな中でのオーストリアの授業枠。
理性では止められず、ついつい手を出してしまった。
その甲斐あって面を揃えることは出来た。それは満足したが、授業後にオーストリアの手で、それを没収されてしまったのだ。
抗議の声を上げようにも、まだ教室内に生徒が残っている状態だった。他人のいる前で、馴れ合うような姿を見せることは出来ない。
放課後、取りにいらっしゃい。そんな風にオーストリアは言葉をかけたが、返事はせずに教室を後にした。
なんとなく気まずい思いが先に立ち、奪われたものを回収しに出向くことをせず、そのままにした。
音楽は週に一度。校舎内ですれ違うようなこともなく三日が過ぎ、時がたてばたつほど顔を出しにくい心地になっていく。
こんなことなら当日に行って適度な説教をくらい、早く放免されるべきだった。そんな風にスイスは後悔していた。
普段なら来週の授業まで無視しておけばいいことだったが、今回はそうはいかない。
週末に予定が入っていた。定期的にオーストリアの家を訪問する食事会がある。自分だけならばともかく、その席にはリヒテンシュタインも同席するのだ。
その日までこの件を引っ張るわけにはいかない。リヒテンシュタインの前で説教などされるのはまっぴらだ。
日数を考えると、今日のうちに取りに行くべきだ。
頭ではそう計算できていたが、なかなか足が動こうとしない。
下校することもできず、かといって音楽室へ出向くこともできず、憂鬱な面持ちでスイスはひとり、グラウンドに響く元気のよい駆け声を聞き流し、足を組み頬杖をついて、ベンチに根を張ったようになって座っていた。
「お兄さま」
慣れた気配に続いて、軽やかな声が背に注がれる。スイスは迷うことなく振り向いた。
「こんなところにいらしたのですね。……練習の見学ですか?」
予想通り、制服に身を包んだリヒテンシュタインが、そこにいた。妹が纏うなごみの空気。いつもとなにも変わらぬ愛らしい様子に、スイスは自然と表情を緩ませる。
「なんとなく腰を下ろしていただけである。お前も座らぬか」
「いいえ。いまからセーシェルさんのお手伝いに参りますから。それよりも、兄さまにとお預かりしたものがあるのです」
「我輩に?」
誰からである、と問いかける前に、リヒテンシュタインは自らのサブバックに白い手を差し入れ、その品を取り出した。
「オーストリアさんからの伝言付きです。楽しくても授業中はよしましょうね、と」
リヒテンシュタインの手のひらには、見覚えのあるカラフルな九面体がのせられていた。
それを目にした途端、スイスの表情は強張った。添えられた伝言に、今度は身体まで固まったような気になった。
それでも。なるべく冷静さを装ってスイスはリヒテンシュタインに問いかける。
「……なぜお前がこれを持っている」
「ですから、お預かりしましたの。それにオーストリアさんのおっしゃる通りですよ、兄さま。いくら楽しくても授業中はよくありませんから。お控えくださいね」
あくまで優しく、信頼を込めた笑顔を添えて、リヒテンシュタインは問題のルービックキューブをスイスへ手渡した。
手に馴染んだ、少しひんやりとした固い感触を手の中へ受け取り、そっと握りしめる。
自分が揃えた面のまま、なにも動かされることなくそれは戻ってきた。
「週末のお食事会、楽しみにしていますね」
では急ぎますので、と言い残し、リヒテンシュタインは校舎へ向かって小走りに去っていった。
残されたスイスはといえば、羞恥と怒りに頬を紅潮させ、ぷるぷると身を震わせている。
「よりによってリヒテンシュタインに言い付けるとは、あいつめ……!」
駆け去る妹の姿が見えなくなると、スイスは勢いよく立ち上がった。
夕暮れの兆しが見え始める時間。音楽準備室にある自分のデスクに向かい、オーストリアはレポートの添削に勤しんでいた。
集中力も切れ始める頃合いで、一旦眼鏡を外し、眉間を軽く揉むようにして指先で触れながら吐息を落とす。
そのタイミングを狙ったかのように、外から大音声が響いた。
「オーストリア! 貴様、どういうつもりである!」
音楽室へ入り、その最奥の扉の向こうに準備室は存在する。小規模のオーケストラで演奏することもあり、音楽室は広めに作ってあるにもかかわらず、その声は真っ直ぐに、準備室の閉じられた扉を突き抜けるようにしてオーストリアの耳に届いた。
苛立ちのにじみまくるスイスの叫び声に、思わず苦笑を漏らしてオーストリアは立ち上がる。眼鏡を直し、準備室を出ようとするが、その前に自動ドアのように扉が開かれた。
「やはりここにいたか!」
顔を真っ赤にし、怒りのオーラを漂わせているスイスが仁王立ちになっていた。
オーストリアは慌てず騒がず、常日頃と同じ口調で応対する。
「ごきげんようスイス。前から言っているでしょう。ドアを開ける時はノックをしてまず名乗ってからと」
「なぜリヒテンにばらした……!」
同じような意味を持つ言葉の羅列が脳内をぐるぐると巡り続けている。
そうする合間にも、あるはずのないもの寂しさから右手の指が癖のようにかすかに動いている。
ここしばらく、ずっと握り続けていたものがない。
何度目かになるため息を零し、スイスはぼんやりと、眼下に広がるグラウンドへ視線を流した。
時には競技場へと姿を変えるそのグラウンドは、周囲を階段状の座席がぐるりと囲み、その上にはさまざまな木々が植えられベンチも備えられ、生徒の憩いの場にもなっている。
そんなベンチの中でも一番隅にある、目立たない場所を確保し、スイスは悩ましげに眉間に皺を寄せていた。
今日、場を確保しているのはサッカー部のようだ。見慣れた顔が幾人も混じっている。愛想を振るように手をかざす者もいたが、スイスは全てを無視しては一人、内心の苛立ちを持て余していた。
近頃はまりこんでいるものがある。
ルービックキューブというものだ。
子供の遊びものと思いこんでいたが、近頃の品は変形したものやら複雑な多面体になったものなど、年齢を重ねても楽しめるものが多く出回っていた。
手慰みにとひとつ借りてみたのが始まりだった。
色を綺麗に揃えてみたり、指定の柄を作ってみたり、時間はかかったが丁寧にやればどうにかなった。
借り物では物足りなくなり、自分で買い求めたのが運の尽き。どっぷりとはまった。
課題や授業の合間に、寝る間を惜しんで面を揃えることに熱中した。息抜きが出来る授業では、こっそりと授業中にまで手を出すようになってしまった。
自分の中でも、そろそろ警鐘が鳴りかけていた。
そんなおり、オーストリアが講師を務める音楽の授業で手作業が見つかった。
一度目は目線で注意をされるだけだった。二度目は無言で、通りすがりに頭を軽く叩かれ、授業後に「次はありませんよ」と忠告された。
さすがにこれはまずいと思い、自分でもしばらくは控えるようにした。大人しく、授業の空き時間だけに触れるように態度を改めた。
だが、三日前のことだ。休日の夜から挑戦していた新しい面揃えが終わらず、学内へ持ち込んで進めていた。
あと少し、あと少しで揃いそうなところまでたどり着いた。
そんな中でのオーストリアの授業枠。
理性では止められず、ついつい手を出してしまった。
その甲斐あって面を揃えることは出来た。それは満足したが、授業後にオーストリアの手で、それを没収されてしまったのだ。
抗議の声を上げようにも、まだ教室内に生徒が残っている状態だった。他人のいる前で、馴れ合うような姿を見せることは出来ない。
放課後、取りにいらっしゃい。そんな風にオーストリアは言葉をかけたが、返事はせずに教室を後にした。
なんとなく気まずい思いが先に立ち、奪われたものを回収しに出向くことをせず、そのままにした。
音楽は週に一度。校舎内ですれ違うようなこともなく三日が過ぎ、時がたてばたつほど顔を出しにくい心地になっていく。
こんなことなら当日に行って適度な説教をくらい、早く放免されるべきだった。そんな風にスイスは後悔していた。
普段なら来週の授業まで無視しておけばいいことだったが、今回はそうはいかない。
週末に予定が入っていた。定期的にオーストリアの家を訪問する食事会がある。自分だけならばともかく、その席にはリヒテンシュタインも同席するのだ。
その日までこの件を引っ張るわけにはいかない。リヒテンシュタインの前で説教などされるのはまっぴらだ。
日数を考えると、今日のうちに取りに行くべきだ。
頭ではそう計算できていたが、なかなか足が動こうとしない。
下校することもできず、かといって音楽室へ出向くこともできず、憂鬱な面持ちでスイスはひとり、グラウンドに響く元気のよい駆け声を聞き流し、足を組み頬杖をついて、ベンチに根を張ったようになって座っていた。
「お兄さま」
慣れた気配に続いて、軽やかな声が背に注がれる。スイスは迷うことなく振り向いた。
「こんなところにいらしたのですね。……練習の見学ですか?」
予想通り、制服に身を包んだリヒテンシュタインが、そこにいた。妹が纏うなごみの空気。いつもとなにも変わらぬ愛らしい様子に、スイスは自然と表情を緩ませる。
「なんとなく腰を下ろしていただけである。お前も座らぬか」
「いいえ。いまからセーシェルさんのお手伝いに参りますから。それよりも、兄さまにとお預かりしたものがあるのです」
「我輩に?」
誰からである、と問いかける前に、リヒテンシュタインは自らのサブバックに白い手を差し入れ、その品を取り出した。
「オーストリアさんからの伝言付きです。楽しくても授業中はよしましょうね、と」
リヒテンシュタインの手のひらには、見覚えのあるカラフルな九面体がのせられていた。
それを目にした途端、スイスの表情は強張った。添えられた伝言に、今度は身体まで固まったような気になった。
それでも。なるべく冷静さを装ってスイスはリヒテンシュタインに問いかける。
「……なぜお前がこれを持っている」
「ですから、お預かりしましたの。それにオーストリアさんのおっしゃる通りですよ、兄さま。いくら楽しくても授業中はよくありませんから。お控えくださいね」
あくまで優しく、信頼を込めた笑顔を添えて、リヒテンシュタインは問題のルービックキューブをスイスへ手渡した。
手に馴染んだ、少しひんやりとした固い感触を手の中へ受け取り、そっと握りしめる。
自分が揃えた面のまま、なにも動かされることなくそれは戻ってきた。
「週末のお食事会、楽しみにしていますね」
では急ぎますので、と言い残し、リヒテンシュタインは校舎へ向かって小走りに去っていった。
残されたスイスはといえば、羞恥と怒りに頬を紅潮させ、ぷるぷると身を震わせている。
「よりによってリヒテンシュタインに言い付けるとは、あいつめ……!」
駆け去る妹の姿が見えなくなると、スイスは勢いよく立ち上がった。
夕暮れの兆しが見え始める時間。音楽準備室にある自分のデスクに向かい、オーストリアはレポートの添削に勤しんでいた。
集中力も切れ始める頃合いで、一旦眼鏡を外し、眉間を軽く揉むようにして指先で触れながら吐息を落とす。
そのタイミングを狙ったかのように、外から大音声が響いた。
「オーストリア! 貴様、どういうつもりである!」
音楽室へ入り、その最奥の扉の向こうに準備室は存在する。小規模のオーケストラで演奏することもあり、音楽室は広めに作ってあるにもかかわらず、その声は真っ直ぐに、準備室の閉じられた扉を突き抜けるようにしてオーストリアの耳に届いた。
苛立ちのにじみまくるスイスの叫び声に、思わず苦笑を漏らしてオーストリアは立ち上がる。眼鏡を直し、準備室を出ようとするが、その前に自動ドアのように扉が開かれた。
「やはりここにいたか!」
顔を真っ赤にし、怒りのオーラを漂わせているスイスが仁王立ちになっていた。
オーストリアは慌てず騒がず、常日頃と同じ口調で応対する。
「ごきげんようスイス。前から言っているでしょう。ドアを開ける時はノックをしてまず名乗ってからと」
「なぜリヒテンにばらした……!」
作品名:ルービックキューブとお兄さま 作家名:西園寺あやの