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トランバンの騎士

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 日が沈み、今日やるべきことは全て終わった。あとは子ども達を寝かしつけて、自分も寝るだけだ……と夜着であったことが災いしたらしい。下着に包まれていない佳乃の柔らかな胸の感触に、赤ん坊はそれを自分の母親のものだと勘違いしたらしく、夜着の上から佳乃の乳首へと吸い付いていた。ちゅーちゅーと音をたてて薄い布越しに乳首へと吸い付く赤ん坊に、佳乃は唾液が汚いだとか、濡れて冷たいだとか思うよりも先に、年頃の娘らしく恥らう――が、赤ん坊を放り出すわけにもいかない。
 むずむずとくすぐったい感触に、佳乃は頬を染めてネノフへと抗議した。
「わたしの胸を吸っても、お乳はでません……」
 ほんのりと恥らう佳乃に、ネノフは笑う。赤ん坊が佳乃を気に入ったのならば、話しは早い。
「そうだわ、こうしましょう」
 そう苦笑を満面の笑みへと変えたネノフに、佳乃は眉をひそめる。
 気のせいでなければ、ひしひしと嫌な予感がする流れになっている気がした。
「この子の世話は、佳乃が責任をもつこと」
「ええっ!?」
 予想通りともいえるネノフの提案に、佳乃は力いっぱい眉をひそめる。――そんなささやかな意思表示をしたところで、この優しいが厳しくもある老女に、それが却下されることは解っていた。
「ビータとエプサイランは、この新米ママをしっかりお手伝いしてあげてね」
「「はーい」」
 名指しされ、仲良く返事をする少女二人に、ネノフは微笑む。それから、丁度納屋から揺りかごを探し出してきたアルプハとデルタに、赤ん坊の世話に必要な道具は全て佳乃の部屋へ運ぶように、と指示をだした。瞬いている間にどんどんと進んでいく話に、佳乃は血の気が失せる。
「あの、シスター? どう考えても、抱っこするのも怖々なわたしに、赤ん坊の世話なんて……」
 無理です。そういって断りたいのだが、少年二人に指示を出した後、振り返ったネノフの笑顔に佳乃は口を閉ざした。
 とてもではないが、断れる雰囲気ではない。
「何をいってるの。あなただって、いつかは誰かの母親になるのよ? 予行練習だと思って、がんばりなさい。それに……」
「それに?」
 もっともすぎる言葉をつむぐネノフに、佳乃は赤ん坊へと視線を落とした。
 ネノフの目を見てはいけない。目を見てしまっては、年長者の迫力に負けて、僅かな抵抗すらも出来なくなってしまう、と。
「その子、すっかりあなたの胸が気に入ったみたいだし」
 身じろぐことをやめ、出るはずのない乳を求めて無心に佳乃の乳首を吸う赤ん坊を見つめ、ネノフは微笑む。自分が抱き上げた時は火が付いたかのように泣いていたが、佳乃に抱かれてからはそれも少し落ち着いた。今はその胸に落ち着いたのか、泣き声もすっかり止んでいる。
「あ、赤ちゃんだから、吸い付ける胸なら、なんでもいいんですよ、きっと」
「そうね。そして、吸い付ける胸は、あなたしか持っていないわね」
 女の子では最年長とはいえ、ビータはまだ10歳で、胸は膨らみ始めてもいない。そして、ネノフの胸はすでにしおれている。しおれた胸でも吸い付けはするだろうが、ネノフの胸は赤ん坊の好みには合わないらしい。どんな胸でも良いのなら、ネノフが最初に抱いた時に赤ん坊は泣きやんでいるはずだった。
 結局、自分で自分の退路をふさいでしまった佳乃はがっくりと肩を落とす。
 そうやって佳乃がネノフとささやかな攻防を繰り広げている間に、ビータとエプサイランは次に取るべき自分たちの行動を判断していた。
「さあ、佳乃。座って」
「……はい」
 ビータの用意した椅子に、佳乃は項垂れたまま腰を下ろす。
 こうなれば、ネノフのいうように、いつかのための予行練習だと開きなおるしかない。残念ながら、その予定は当分なさそうだったが。
「まず、抱き方はこう」
 そう言いながら、ネノフは佳乃胸に吸い付く赤ん坊を引き剥がし、抱いている向きを変える。佳乃の左胸に赤ん坊の頭が当たるように抱かせると、その意味を丁寧に教え始めた。
 佳乃は子どもが嫌いという訳ではない。今はただ、戸惑っているだけだ。ちゃんと時間をかけて説明すれば、理解もするし、赤ん坊を受け入れると確信して。
「はい、佳乃お姉ちゃん」
 エプサイランに布を手渡され、佳乃は瞬く。
 ネノフに片手で赤ん坊を抱かされたため、落とさないようにと頭が一杯になってしまい、その布の意味がわからない。が、その布の先端が濡れており、僅かに白い液体が表面に浮いているのは解った。
「お乳を布に浸して、少しずつあげるの」
 つまり、布は哺乳瓶の代わりであり、白い液体は先ほどまで作っていたお乳の代用品だ。
 突然赤ん坊に乳首を吸われ、混乱したため忘れていたが、自分たちはまず新しく来た家族を生かすために行動を起した。
 まずはご飯だ、と。
 佳乃にとっても食事が大切な行為であるように、赤ん坊にとっても食事は大切な行為だ。だからこそ、赤ん坊は母親でもない、出る見込みのない佳乃の乳首にも吸い付くのだ。
 佳乃は意を決すると、赤ん坊を見下ろす。
 片手で赤ん坊を支えろというのは、今はまだ難しい。が、自分はビータの用意した椅子に座っている。赤ん坊を落としたところで高さは知れているし、膝に乗せてしまえばより安定した。
 恐れる必要など、本当は何も無い。
 佳乃をエプサイランに手渡された布を赤ん坊の唇にそっと当てた。
 赤ん坊はその唇から伝う乳に気がつき、すぐに布へと吸い付く。
 無心に乳を吸う赤ん坊に、佳乃はホッと息をはいた。



「……せいがでるな」
 子ども達が寝起きをしている建物。その裏手にある自家菜園と呼ぶには少し広い畑の一画で、佳乃と年少4人が雑草を抜いていると、不意に声をかけられた。
 佳乃が孤児院で暮らすようになってから、まだひと月も経ってはいない。その声の主と会ったことも数えるほどしかないが、佳乃はすでにその声を覚えてしまった。というよりも、佳乃にとっては大恩人になる。誰よりも先にまず覚えるべき人物だろう。
 佳乃は腰をあげ、声の主に振り返る。
 視線の先には馬の手綱を握った銀髪の騎士が立っていた。
「イグラシオさ……ま」
 咄嗟に『さん』と続けようとした言葉を、佳乃は慌てて『様』に直す。生身の人間に対して『様』と敬称をつけて呼ぶことには、未だに慣れない。
 最初はイグラシオに対して『さん』と呼んでいたのだが、騎士対してそれは失礼にあたる、とネノフに『様』と呼ぶように直された。一応とはいえ身分制度のない日本生まれ、日本育ちの佳乃からしてみれば、誰かに対して『様』をつけて呼ぶことには違和感があった。が、イグラシオに対して『様』をつけて呼ぶことを『ここ』では誰も笑わない。やはり、これが『この世界』での普通なのだろう、と佳乃は気恥ずかしいながらも受け入れた。
「ここの暮らしには、もう慣れたか?」
「はい。なんとかやれてます。シスターやビータが色々教えてくれて、他の子たちも手伝ってくれるので」
 イグラシオの問にそう答え、佳乃は視線を廻らせる。
作品名:トランバンの騎士 作家名:なしえ