トランバンの騎士
早速、と行動を開始し、廊下を歩き始めたネノフに続き、佳乃は首を傾げる。
いつも迷う事なく、自分に様々なことを教えてくれるネノフにも、悩むような事柄があるのか、と。
「今は、村にお乳の出る女の人がいないのよ」
イパのところは、まだ当分先だし。と身重の妻を持つ村人の名を挙げて、ネノフは立ちどまる。
やはり、赤ん坊には母乳が一番良い。が、それがないのなら代用品で済ませるより他にない。
「え?」
一瞬だけ瞬いた佳乃に、ネノフは赤ん坊を差し出す。反射的に手を出した佳乃は、『それ』を受け取ってしまった。
ずっしりと思いのほか重い赤ん坊を落としそうになり、佳乃は慌てて自分の胸へと引き寄せる。
「ちょっ……シスター!?」
佳乃に赤ん坊を預け、そのまま何も言わずに歩きだしたネノフに、佳乃は慌てて追いすがる。慣れない重みに、うっかりすると赤ん坊を落としてしまいそうで怖かった。泣き続ける赤ん坊は、人肌に温もりをわけられて僅かに元気を取り戻したのか、佳乃の腕の中でもぞもぞと動き始めている。
「すぐにお乳の変わりを用意するから、お願いね」
「お願いって……」
容赦なく言い捨てるネノフに、佳乃は情けのない悲鳴を上げた。
佳乃は赤ん坊を抱いたことなどない。
佳乃の腕の中の赤ん坊は見た目よりも重く、少しもじっとしていてはくれない。もぞもぞと動いて、今にも落としてしまいそうで怖かった。ひょっとしたら、自分の抱き方が悪いのだろうか? とも思うが、抱いたことがないので仕方がない。たしか、頭を支えなければいけない、と何かの本で読んだ気がした。とはいえ、頭を支えるとは、どういう意味だろうか? と忙しく思考し、混乱している佳乃の横でデルタが動いた。
デルタは赤ん坊の体重をより安定して支えられるように、と佳乃の手を取り、赤ん坊の頭の位置を直す。
デルタに教えられ、なんとか赤ん坊を抱きなおした佳乃に、ネノフは呆れたような苦笑を浮かべる。
「何を慌てているの? あなただって、いつかは自分の赤ん坊を抱くんですから……そんなに怖がらなくていいんですよ」
「怖いっ! 滅茶苦茶怖いっ!!」
佳乃が今抱いているものは『人間』だ。
仔猫や仔犬とは違う。
何かのはずみにうっかり落としてしまっては、一大事だ。
「落としたら怖いから、抱きたくないっ!」
混乱して本音を漏らした佳乃に、ネノフの苦笑は消える。
自分の抱いているものが同じ人間だと解っているのは、良いことだ。が、子どもは天からの授かりもの。抱きたくないとは何事だ、とネノフは眉をよせる。赤ん坊の親とて、捨てたくて我が子を捨てた訳ではないはずだ。愛しくて大切で、生かしたいからこそ、手放すことを選んだ。にも関わらず、託した先で怖いから抱きたくないなどと。
デルタに支えられながら赤ん坊を抱く佳乃に、ネノフは荒療治を決意する。どの道、この孤児院で暮らす限り、佳乃も赤ん坊の世話からは逃げられないのだから。
「……そりゃ、できれば落とさない方がいいけど、落としたって大丈夫ですよ。赤ちゃんは意外に頑丈だから」
「でもっ……」
「首はもうすわっているみたいだから、大丈夫よ。デルタ、佳乃をお願いね」
「わかった」
本来ならば『お願い』されるのは佳乃であるのだが、ネノフは佳乃と赤ん坊をまとめてデルタに『お願い』した。
佳乃にはそれが少々情けなくあり、が、仕方がないか、と肩を落とす。何よりも、一人で赤ん坊を抱くのには不安があった。
「ズィータはイオタ達を寝かしつけてちょうだい」
「うん。イータ、テータ、イオタ、お部屋いこ」
ネノフの指示にズィータは頷くと、イオタの手を取る。くいっと手を引くと、イオタは名残惜しそうに赤ん坊を見上げたが、すぐに自分たちの部屋へと歩き出す。
仲良く自分たちの部屋へと戻る子ども達を見送っていると、裏口からアルプハの声が聞こえた。
「シスター。エプサイランがヤギの乳はどれぐらい必要かって聞いてる。あと、ビータが……」
と、ネノフが取ろうとしていた『次の行動』を、年長の子ども達が先回りしていたことに佳乃は瞬く。
赤ん坊の泣き声は聞こえていたはずだが、彼らが玄関まで出てこなかった理由がわかった。彼らは赤ん坊の顔を見ることよりも早く、赤ん坊を生かすために必要な仕事を自分たちで判断し、すでに始めていたのだ。
自分は赤ん坊を抱くだけでも戸惑っているのに、と佳乃は瞬く。子ども達の手際は、驚くほどに良い。この場所――むしろ、この世界――にいると、自分がいかに応用力のない人間かを思い知らされる。日本で学んだ学問など、ここで生きていくためにはなんの役にも立たない。必要なのは本や学校でならった知識ではなく、生活を営むための経験だけだった。
この世界に来てから、学ぶことは本当に多い。
そう、改めて思い知らされた気がした。
「……さあ、佳乃。
お乳の代わりの作り方を教えるから、覚えてちょうだい」
僅かに俯いた佳乃に、ネノフは再び苦笑を浮かべる。
佳乃はもう二度と、抱くのが怖いなどとは言わないだろう。そう確信した。
「……これで、完成?」
「うん」
赤ん坊を抱いたまま、佳乃はビータとエプサイランの作業を見守っていた。
見守る――といっても、本当に見ているだけではない。目の前で繰り広げられる作業に口こそ挟まなかったが、その工程は頭の中へと叩き込んだ。
一番の古株らしいビータは、赤ん坊の世話も慣れているのか、お乳の作り方もすでに覚えていた。それが本当にあっているのか、間違っていないかをネノフに確認しながら、その方法をエプサイランへと教える。年長者から年少者への、技術の伝授。そう言えば少々大げさにも聞こえるが、佳乃にはそれが致命的なまでに足りなかった。親戚の赤ん坊等その気になればいくらでも抱く機会はあっただろうに、佳乃はそれを怠ってきたため、今現在『赤ん坊を抱くだけで怖い』等という情けない状態に陥っている。佳乃の腕に抱かれたままの赤ん坊はというと、やはり抱かれ心地が悪いのか、時々思い出したかのように身じろぐ。とはいえ、だいぶ前に泣き止んではくれているので、それだけは救いだった。母親とは違う佳乃の胸でも、それなりに満足をしてくれているようだ。
「……ひゃあっ!?」
もぞっと赤ん坊の身じろぐ感触と、続いた『感触』に佳乃は反射的に悲鳴をあげる。
時々もぞもぞと動く赤ん坊の仕草がむず痒いとは思っていたが、まさか、こんな『攻撃』を受けるとは思ってもいなかった。
突然の佳乃の悲鳴に、ネノフと女の子二人は一斉に何事かと顔を向けたが、すぐに『それ』を見て笑う。
「あらあら。やっぱりお母さんのお乳が恋しいのね」
と、夜着越しに佳乃の胸に吸い付く赤ん坊を見て、ネノフは苦笑を浮かべる。