トランバンの騎士
二人同時に振り返られたネノフは、苦笑を浮かべていた。
「シスター!」
そう呼ぶ佳乃の腕に抱かれた赤ん坊が下半身裸でいることに気がつき、ネノフの苦笑は深まる。
この普段は静かな礼拝堂で何が起こり、どうしてミューが裸で泣いているのか、その理由がわかった。
「あらあら、あなたのママは、まだおしめの付け方を覚えていないのね」
泣きやまないミューを受け取り、あやし始めたネノフに佳乃は情けなくなり、俯く。
たしかに、何度も教わっているというのに、自分は満足におしめを換えられてはいない。
俯いた佳乃に気づかず、双子がネノフに『報告』をする。
「あのね、佳乃ママ、いっぱい失敗したの」
「だから、エンドリューさまに怒られた」
この『報告』に、自分の成績をばらされた佳乃は口を閉ざし、素行を暴露されたエンドリューは絶句した。
佳乃や双子は良い。彼女達は自分が何を言おうが、『知らない』のだから。
が、ネノフは『知っている』。
エンドリューが佳乃の優位に立っていられる理由と、それ以前の自分の姿を。
「あらあら。エンドリュー様だって、昔はおしめが換えられなかったのに、それなのに佳乃ママに怒るだなんて、おかしいわね」
わざとらしく眉をひそめ、過去の自分を暴露するネノフに、エンドリューは眉間を寄せた。
あまり知られたくない話を、一番知られたくない人物に、そうと知っていてばらされる事ほど、心臓に悪い事はない。
「ネノフ、その話は……」
忘れて欲しい。
そう続けたかったのだが、一番知られたくない人物は、それを聞き逃してはくれなかった。
「え? そうなんですか?」
ちらり――とエンドリューの顔色を伺った後、佳乃はネノフに言葉の続きを促す。
それを受けて、ネノフの苦笑はさらに深まった。
「うふふ。イグラシオ様のお供で、ここに来るようになってから……
イータとテータのおしめを換えて、覚えられたんですよ」
だから、エンドリューも最初からおしめ換えができた訳ではない。
そう言外に込められたネノフの言葉に、佳乃は頬を緩める。
偉そうに『おしめを換えられる』と言ってはいたが、自分だって最初は出来なかったのではないか、と目を細めてエンドリューを見た。
「……なんですか? その目は」
「別に? 偉そうなこと言っておいて、自分だって最初は出来なかったんだなーなんて、思ってませんよ?」
「思っているじゃないですか」
険悪とは言わないまでも、再び言葉の応酬を始めた佳乃とエンドリューに、ネノフは目を細めて笑う。ネノフの腕の中で、ミューの泣き声は治まっていた。
「さあ、佳乃。もう一度教えるから……いえ、エンドリュー様にお手本を見せていただきましょうか」
「え?」
ネノフの言葉に、佳乃は首を傾げる。と、そうしている間にネノフはミューをエンドリューの腕へと託していた。
「お願いします」
「……はい」
ミューを受け取り、早速おしめを着けようと長椅子に寝かせたエンドリューに、ネノフは囁く。
「たぶん、佳乃はエンドリュー様と同じところで引っかかっているんだと思います」
そう囁くネノフに、佳乃は首を傾げ、エンドリューはその視線から逃げるように顔を背けた。
「……で、完成です」
敬愛するイグラシオですらも頭の上がらないネノフにやり込められて、エンドリューは淡々と佳乃に説明をしながら赤ん坊におしめを着ける。
無駄のないエンドリューの説明に佳乃は時折頷きながら、その見事な手並みを見守った。
「……キレイ」
念のため、とミューの脇の下に手を入れて立たせ、おしめがずり落ちないかを確認したが、エンドリューの着けたおしめはぴったりとミューの丸いお腹に着いている。佳乃がつけた物と同じ布なのだが、つける人間が違うだけで、こうも違うものか……と佳乃は素直に感心した。
「……エンドリュー様も、シスターに教わったんですか?」
すっかり険がとれ、素直な賛美を向ける佳乃に、エンドリューは居心地悪く言葉を濁す。
単純で時折驚くほど豪胆な行動を見せる佳乃は頭の切り替えも早い。
先ほどまでの険悪な雰囲気など、佳乃の頭の中にはもうないのだろう。
「いえ、自分は団長から教わりました」
「……イグラシオ様って、おしめ換えもできるんですか?」
聞き返しながら、想像する。イグラシオの大きな身体で、小さな赤ん坊のおしめを換える姿を。
少々の違和感は拭えなかったが、似合わないこともない――かもしれない。そういえば、イグラシオは赤ん坊を抱くのにも慣れているようだった。佳乃が押し付けたミューを、慌てることなく抱きとめていたし、片手でやすやすと抱いてもいた。もしかしなくとも、佳乃のようにおしめ換えに悩むことも、寝かしつけるのに悩むこともないのだろう。
偉丈夫の代名詞ともいえるイグラシオの意外な姿に、佳乃は苦笑する。が、エンドリューやイグラシオにしてみれば、年少者の世話をすることなど普通のことだ。佳乃が疑問に思うことの方がおかしい。
「さて」
さも意外だ、とばかりに首を傾げる佳乃を尻目に、エンドリューはミューの着けたばかりのおしめを解いた。
「あ、え? なんで? 折角つけたのに……」
そう首を傾げる佳乃に、エンドリューはしれっと答える。
なんとなく、わかった。佳乃がおしめの着け方を覚えない本当の理由を。
「復習です。ちゃんと覚えたか、今度はあなたが付けてください」
こうやればできる。そう教えながら、教える側が作業を終わらせてしまっては、なんにもならない。
ちゃんと覚えられていないことも、その場では出来ているのだから、これでいいのだろうと半端に覚えたままになってしまう。それでも作業は一応終了するが、結局は佳乃のためにならない。
どれだけ時間がかかろうとも、見た目が格好悪くとも、教える側は手をださず、佳乃の手で作業を終わらせなければ。
「ううっ……」
恨めしそうに自分を睨む佳乃を、エンドリューは無視する。
佳乃に睨まれようが、恨まれようが、エンドリューには痛くも痒くもなかった。
教わった手順をなぞり、今度は自分ひとりの手でおしめを付けようと格闘する佳乃から数歩下がり、エンドリューはそのたどたどしい手つきを見守る。
佳乃は決して馬鹿ではない。
ただ、自覚の有るなしはこの際置いておくとして、聞き方と甘え方が上手く、教える側に『つい』教わるべき作業を『させて』しまう。だから『手で覚える』必要のあることを、佳乃はなかなか覚えられない。佳乃は物を知らない。誰かが教えなければならない、と最初から思っているネノフやビータではダメだ。つい手を貸してしまい、結果として何度も教わったというのに、佳乃の身には付いていなかった。
けれど、エンドリューは違う。
佳乃に対して『何でも教えてやらなければ』等とは思っていないし、その必要もない。頼られればそれを断る理由もないが、自分から進んで手を貸してやる理由もなかった。
それゆえに、エンドリューは佳乃をある意味では正しく導ける。
少々喧嘩腰になるのは、ご愛嬌といったところか。