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トランバンの騎士

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【04章】彼女の疑問と騎士の苦悩


 ずっしりと実ったキュウリのヘタに手を伸ばし、捻る。きゅっと軽い抵抗があった後、キュウリは佳乃の腕の中へと収まった。形はやや不恰好だが、日本のスーパーで見かける物よりも大きく、重量もあった。
 立派に育ったキュウリを見つめ、佳乃はそっとため息を漏らす。
 佳乃が孤児院に暮らすことになった後、イグラシオが畑を広げて蒔いた種が、すでに収穫の時期を迎えている。
 それはつまり、それだけの時間を佳乃がこの世界で過ごしている、という事実に他ならない。
 佳乃は収穫したばかりのキュウリを籠に入れると、次にもぎ取るべき実へと手を伸ばした。
 時間は確実に過ぎている。
 ここに来たばかりには何もできなかった自分が、今では洗濯機も使わずに洗濯をすることができるし、おそらくは紙おむつのお世話になる予定であった子育ても、布のおしめを使いこなせるようになっていた。
 佳乃は支柱に絡まるキュウリから、木陰に置かれた籠へと視線を移す。ミューが孤児院に来た時に入れられていた籠だが、そろそろミューには狭くなってきたようだ。丸みを帯びた足が籠からはみ出している。風邪をひかないように、とかけた御包みが風に煽られてふわりとミューの腹から落ちた。すぐに気が付いたテータがそれを拾い、ミューの腹にかけている。あまり身体が丈夫ではないテータは、今日は朝から調子が悪い。だから今日の彼女の仕事は、木陰で休みながらミューを見守ることだ。その代わりというように、ネノフの横でイオタとイータは張り切って収穫の手伝いをしてくれている。
(それにしても……)
 佳乃は息抜き代わりに立ち上がり、腰を伸ばす。腰を屈めての長時間作業も辛いが、座っての作業も辛い。新たにもぎ取ったキュウリを籠に入れると、一度大きく伸びをして、あたりを見渡した。少し離れた場所で、まだ頬の当て布が取れないイグラシオとアルプハが鍬を使って土を掘り起こしているのが見える。なんのための作業なのかは佳乃には解らなかったが、収穫作業が終わったら手伝いに行き、その時に聞けばいい
 佳乃は次の作業の予定を立てると、土を掘り起こす二人の背後へと視線を移した。
 黙々と作業を続けるイグラシオとアルプハの背後には、青々と実る野菜と麦畑が広がっている。まだ収穫の季節ではないために青い麦ではあったが、豊かに実っていることは確かだろう。
 そう。経験がないため断言はできないが、間違っても凶作には見えない。
 それゆえに、佳乃は首を傾げずにはいられなかった。
「……シスター、これは豊作なの? それとも普通?」
 凶作ではないと思うが、豊作なのか、普通のできなのかは解らない。
 佳乃が首を傾げながら近くで収穫を続けるネノフに振り返ると、ネノフは手を休めて苦笑を浮かべた。
「そうね……大豊作とはいえないけど、凶作ではないわね」
 曖昧に言葉を濁すネノフに、佳乃は眉をひそめる。
 豊作ではないが、凶作でもないという事は、つまり……
「それは、普通ってこと?」
「普通もよりも良い、ってことよ」
 先の答えよりは明確になった老女の言葉に佳乃が満足すると、ネノフは自分のもいだキュウリを籠に入れ、腰を伸ばした。
「そろそろ腰が痛くなってきたわね」
「あ、だったら……」
 収穫してよい大きさは判る。残りは自分と子ども達で作業をするので、ネノフは休んでくれ、と佳乃は続けようとしたのだが、先に言葉を遮られてしまった。
「休憩がてら、保存の準備をしましょうか」
「保存? すぐには食べないの?」
「もちろん食べるけど、保存する物も必要でしょう?」
 まるまると育ったキュウリを見下ろし、佳乃は瞬く。スーパーで売られている肉や野菜が実際には表示された期限よりも長く持つことは知っているが、やはり生ものには違いない。保存するといっても、品質が保たれる期間には限度はあるはずだ。冷蔵庫のないこの世界では、余計に。
 とはいえ、現在自分たちが収穫している量が既に総勢11人――今日はイグラシオがいるので12人か――で食べるには多すぎる。いくらかは食べるにしても、やはり保存用に加工することは必要だろう。そして収穫は今日だけでは終わらない。今日佳乃達が収穫しているのは、大きく実ったものだけだ。まだこれから大きくなる実が蔓にある以上、明日、明後日にも似たような量が収穫できる。ということは――いずれにせよ、食べきれない物は保存食として加工されるのだ。
 瞬きながらキュウリと籠を見比べる佳乃に、ネノフは苦笑を浮かべた。
 だいぶ仕事を覚えてはいる――むしろ、一度仕事を覚えると佳乃は他の誰よりも手際が良くなる――が、佳乃はどこか1つ抜けている。一年を通して栽培できる野菜もあることはあるが、基本的に作物は季節ごとに実る。夏の野菜は夏にしか採れず、冬の野菜は冬にしか採れない。夏野菜が冬に実ることはないのだ。となれば、どうしても『保存』という行為は必要になってくる。
 食べきれないから保存をするのではなく、食べるために保存をするのだ。
 その点の認識が、ネノフと佳乃では致命的なまでにずれていた。
「保存食の作り方を教えるから、覚えてくれる?」
「はい」
 ネノフの誘いに、佳乃は飛びつく。
 腰の痛くなる作業からの開放――というよりは、単純にネノフに教わるという行為が好きだからだ。ネノフは佳乃の知らない『生きていくための知識』を沢山持っている。そして、それを惜しむことなく佳乃に教えてくれた。時々厳しく、佳乃が困るような提案をしてくる事もあるが、それら全ては佳乃のためを思ってのことだと、自惚れではなく感じ取ることができる。だから、佳乃は――佳乃だけではなく、孤児院に暮らす子ども達も――ネノフが好きなのだ。
 自分の収穫した籠を持ち上げるネノフに続き、佳乃も自分の籠を持ち上げる。少々ではなく、重い。規格外に大きいキュウリと、他にも野菜が入っている。手を籠の取っ手から底へと移動させ、重心の安定を図る必要があった。情けないことに、この世界での自分はかなり非力な部類だと知った。日本にいた頃は日常的に農作業などしてはいなかったので、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
 佳乃とネノフが次の仕事へと移った事に気が付き、イオタとイータが立ち上がる。そのまま自分たちの収穫を佳乃の籠に入れようとして――やめた。彼らにとっても、佳乃が非力であることは周知の事実。二人はくるりと向きを変えると、老女に籠に自分たちのキュウリを入れるため、ネノフの後を追いかける。
 ネノフの籠に野菜を入れる子どもを見つめ、佳乃はふと思いついた疑問を口にする。
「ねえ、シスター」
「何かしら?」
「こんなに収穫があるのに、なんでいつもギリギリなの?」
 佳乃が居候として孤児院に住む事になった時、イグラシオは当面の食料として小麦を運び込んでいた。そして、次に孤児院を訪れた際に裏庭の余っていた土地を整えて畑を広げてもいた。ミューという食い扶持が増えたとはいえ、ミューはまだ赤ん坊で、食べる量は大人の佳乃に比べればないに等しい。
作品名:トランバンの騎士 作家名:なしえ