トランバンの騎士
ネノフが『ミューのママ』と呼び始め、ズィータがそれに続き、双子、ビータ、エプサイラン……最近ではアルプハまでもがそう呼んでいる。今ではその呼び方を利用していないのは、イオタとデルタだけだ。
佳乃自身がそう呼ぶように言ったわけではないが、いつの間にか『ママ』という呼び方が定着してしまっていた。
そしてもう一つ気がつく。
佳乃が来る前から子ども達はネノフの元にいたわけだが、子ども達は決してネノフの事を『ママ』とは呼ばない。みな揃って『シスター』と呼び、佳乃もそれに習った。
「……あたしも、ネノフを『ママ』って呼びたかったよ」
寂しげなヒルダの横顔を見つめ、佳乃は首を傾げる。
現在孤児院に身を置く子ども達の年齢からすれば、ネノフは『ママ』という年齢ではない。『シスター』以外の呼び方をするのならば、『祖母』だろう。
が、ヒルダの年齢であれば――ネノフを『ママ』と呼んでもギリギリ違和感はなかったのではないだろうか。
「呼ばなかったんですか?」
「いつも優しいネノフだったけど、『ママ』って呼ぶことだけは許してくれなかったね。たぶん……あの男も同じじゃないかね」
少しだけ遠い目をしたヒルダに、あの男とはイグラシオの事を差しているのだと解った。そういえば、イグラシオもネノフの事を名前で呼んでいる。孤児院の子ども達はみな『シスター』と呼んでいるが、喜ぶべき事だが孤児院を出てからは離れてしまった身が寂しかったのだろう。愛情と親しみを込め、幼児期の呼び方から卒業し、『ネノフ』と名前で呼んでいるのだ。
「理由はわからないし、聞いちゃいけないんだろうなーって、子ども心に思ったものさ」
寂しげに笑うヒルダに、佳乃は目を伏せる。
目の前の女性はイグラシオに傷を負わせた盗賊で、元孤児。
そして孤児院の子ども達に優しく、孤児院を出た今でもネノフを『ママ』と慕っている。――そう呼ぶことを、許されていなくとも。
ヒックスといい、ヒルダといい、イグラシオといい――みなそれぞれに悩みを抱え、辛そうだ。
ヒルダの横顔にイグラシオを思い出し、佳乃は考える。
(……悪い領主に仕えているって、イグラシオさん……)
いつかの自分の失言の正体に、ようやく気がついた。
あの時佳乃が『馬鹿』といった相手こそが、イグラシオが仕えている主だったのだ。
佳乃のイグラシオに対する思いは、アルプハの評価となんら変わらない。
優しくて、強い騎士だ。
が、閃光騎士団としてのイグラシオは、それとはまったく違う一面を持っていた。
不快気に眉を寄せたアルプハに、そう知らされた。
イグラシオを想い、佳乃は眉をひそめる。
優しくて、強いイグラシオ。
まるで物語の中の騎士そのものであるかのような彼は、『悪い領主』と子どもにまで称される主人に仕え、それを本当に善しとしているのだろうか、と。
納屋で黙々と鍬の柄を削っていたイグラシオの背中を思い出し、佳乃はそっとため息をはいた。