トランバンの騎士
あの時、確かに自分はいった。
子ども達が望んでくれる限り、自分は子ども達の『ママ』だ、と。
が、イグラシオと子ども達を秤にかけ、天秤が傾くのは――
僅かに迷いを浮かべた佳乃に、ビータはいち早く気が付いた。
佳乃の結論を待つまでもない。
眉をよせて困惑した佳乃の表情こそが、答えだ。
「嘘つきっ!」
「ビータ!」
佳乃の手を払い、ビータは台所を飛びだす。
佳乃はすぐにビータを追いかけようと足を踏み出すが、腰を上げたネノフに止められた。
「大丈夫よ。あの子は子ども達の中で一番しっかりしているから。そのうち解ってくれるわ」
「でも……」
確かにビータはしっかりしている。
今は癇癪を起して飛び出していったが、やがては落ち着いて戻ってくるだろう。そして、ネノフの言葉も理解して割り切るはずだ。佳乃が来る前の生活に戻るだけなのだと。
言い淀む佳乃に、ネノフは「でもじゃないの」ときっぱりと言い捨てた。
たしかに、イグラシオを優先し、『ママ』と呼ばれることに対して躊躇した自分には、ビータを追いかける資格はないのかもしれない。
そう思い至り目を伏せた佳乃に、ネノフは苦笑を浮かべながら言葉を続けた。
「イグラシオ様のことが、気になるんでしょう?」
「子ども達のことも気になります」
イグラシオも気になるが、子ども達のことが気になるのも本当だ。
ただ、緊急性を考えると、どうしてもイグラシオが優先されてしまう。今のところ子ども達には目に見える危機はない。イグラシオに庇護され、孤児院での生活は村人の生活ほど困窮していなかった。
「子ども達のことは気にする必要はないわ。さっきも言ったように、あなたの来る前の生活に戻るだけだから」
元々孤児院は佳乃が居なくとも、子ども達がネノフを良く支えやってきていた。
それはそれで寂しい気もするが、佳乃が文句を言えた義理ではない。
「ああ、でも……そうね。ひとつだけ条件があるわ」
「条件?」
口調を明るく変えたネノフに、佳乃は瞬きながら顔を上げた。
「あなた、まだ文字を覚えていないでしょう」
「うっ」
必要ないか、と考えないようにしていた事実をネノフに突っ込まれ、佳乃は顔を引きつらせる。
頭の柔らかい子どもであれば何とかなったかもしれないが、佳乃の年齢で今更別の世界の文字など、覚えきれるとは思えなかった。
「文字を覚えて、時々でいいから手紙をちょうだい」
眉をひそめて渋面を浮かべた佳乃に、ネノフは苦笑を浮かべる。
確かに、佳乃が居なくなったとしても、『佳乃が来る前の生活に戻るだけ』であると解っている。が、だからといって年齢を重ねたネノフであっても『寂しくない』という事はない。自分達とイグラシオを秤にかけ、イグラシオを選んだ佳乃には、ちょうどいい意地悪にもなるだろう。
苦笑を浮かべながらも自分の背を押してくれているネノフに、佳乃は心の中で感謝し、そして詫びた。
トランバンへ、と送り出してくれることはありがたいが、どうせ孤児院を出て行くのならば――
行き先はハイランドだ。