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トランバンの騎士

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 もう少し待ってみます。
 そう答えた佳乃にネノフは僅かに眉をひそめたが、ややあってからそれを認めてくれた。
「そう? あまり夜更かしはしないようにね。それと、暖かくしていなさい」
「はい」
 そっと佳乃の肩に自分のはおったショールをかけて、ネノフは自室へと戻っていく。
 その背中を見送った後、佳乃は燭台をテーブルに置き、ティーポットの前に陣取った。
 ネノフが言ったように、イグラシオは何も告げずに帰ってしまったのかもしれない。
 が、何も告げずに帰るのはおかしい。
 一度は断ったお茶を淹れてくれといったのは、イグラシオ本人なのだから。
 諦め悪く、佳乃は燭台の焔を見つめた。



 パタパタと廊下を歩く軽い足音に、佳乃の意識は浮上する。
 夢は見ていなかった。
 孤児院で暮らすようになって身に付けた新しい生活習慣が、いつもの起床時間を教えてくれている。
 もう少し眠りたい。というよりも、寝足りない。そもそも、いやに肩が凝っている気がして――佳乃の意識は完全に目覚めた。
「……朝?」
 明るい室内に、佳乃はぼんやりと室内を見渡し思いだす。
 どうやら昨夜の大雨はすでに止んでいるらしい。明るい日差しに、小鳥のさえずりが聞こえた。
 すでに一日の活動を開始している世界に、佳乃はそっとため息をもらす。
 イグラシオが戻ってくるかもしれない。
 そう思って談話室の椅子に陣取っていたのだが、結局そのまま眠ってしまったらしい。どうりで肩が凝っているはずだ。座ったままテーブルに突っ伏して寝るなど、体に良いはずがない。
 佳乃が両手を伸ばして大きくのびをすると、肩からネノフと自分のショールが落ちた。2重にショールをかけていたため、秋近い季節に寒い部屋で寝ていても風邪をひかずにすんだようだ。体を伸ばすついでに深呼吸をし、大きく息を吸い込むと――ドアを開けてネノフが談話室へと入って来た。
「結局、そのまま眠ってしまったのね?」
「……すみません」
 呆れた響きを持つネノフの言葉に、佳乃は大きく開いた口を閉じる。
 佳乃が視線をネノフに向けると、ネノフの後ろからビータが首を傾げながらこちらを覗きこんでいた。
 無理もない。昨夜イグラシオが来たことを知らない子ども達にしてみれば、自分の部屋があるにも関わらず、テーブルで寝ていたらしい人間の考えなど解らないだろう。
 首をかしげているビータに苦笑で答え、佳乃は冷め切ったティーポットを片付けるため、盆を持ち上げた。



 テーブルに突っ伏して眠っていたらしい佳乃にビータはしきりに首を傾げていたが、佳乃がティーポットをもって台所に入ると、早々に裏口から顔を洗いに出て行った。
 耳を澄ますとアルプハと双子の声が聞こえた。どうやら井戸端には先客がいたらしい。
 子ども達はこれから顔を洗い、そのまま水汲みの仕事を始める。
 いつもならば佳乃はもう少し早く起き、着替えて顔を洗い、ビータに手伝われながら朝食を作るのだが……今日は完全に出遅れていた。
 活発に一日の活動を開始した子ども達に比べ、佳乃は夜着のままぼんやりと台所に立ち、ティーポットを作業台に置いて――遅れて台所に来たネノフに呟く。
「何か……イグラシオさんに恩返しができたらいいんだけど」
 イグラシオを待ちながら散々考えたが、良い案は浮かばなかった。ほんの少し勇気があれば実行に移せそうな案は、いくらでも浮かんできたが。
 早速外から聞こえてきたビータとアルプハの笑い声を聞き、佳乃は目を伏せる。
 孤児院で待っていても恩人であるイグラシオの役には立てない。
 孤児院を出てトランバンへ行ったとしても、自分に何も話さないイグラシオの悩みを軽くする事はできない。
 孤児院を出てハイランドまで王が誰か、あとどのぐらい待てばトランバンへ来るか、を確認するための勇気もない。
 深いため息を吐いて目を伏せる佳乃に、ネノフは苦笑を浮かべる。
 佳乃は自分からは何も言わないが、やはりイグラシオの側にいたいのだろう、と。
「……それじゃあ、トランバンに行ってみる?」
「え?」
 ネノフの口から洩れた意外な言葉に、佳乃は瞬く。
 自分でも一度は考え、すぐに否定した選択肢を他人の口から改めて聞かされ、佳乃は驚いてネノフを見つめた。
「お側に行っても、何もできないかもしれない。けれど、ここでじっと待っているよりは、いいかもしれないわ」
「でも……」
 ネノフの提案は魅力的だが、佳乃には飛びつけない理由がいくつかある。
 生活力のない自分がトランバンへ一人で行っても、生活ができない。まさか、自分の勝手で預けられた孤児院を出てトランバンへと押しかけるのに、その生活の世話をしろ等とはとてもではないがイグラシオには言えない。それこそ、彼の負担を増やしかねないのだ。役に立ちたいと思っているのに、トランバンへと押しかけて行っては役に立つどころか、その逆にしかならないだろう。
「あなたにその気があるのなら、紹介状を書いてあげるわ。トランバンの教会へ移ってみる?」
 思案する佳乃を尻目に、ネノフは自分の提案を続けた。
「今の時代、癒しの奇跡が使える僧侶は貴重なの。どこの教会だって、もろ手を挙げて歓迎してくれるわ」
 神と対話できるほどの信仰心をもった者など、ほとんどいない。それが本職の僧侶であっても、かわりはない現状だ。佳乃のように、神の力を借りられる存在は珍しい。ゆえに、どこの教会であれ、権威の象徴として歓迎されるだろう、と。
 ネノフにトランバンへ移った後の住処を保証され、それでも佳乃は迷う。
 心配なのは、生活面だけではない。
 心配なのは――
「やだっ!」
 突然の大声に会話を遮られ、ネノフと佳乃は声の聞こえてきた方向――裏口へと目を向ける。
 そこには手ぬぐいを握り締めたビータが立っていた。
「ビータ」
 もう一つの『心配事』である『孤児院の子ども』を見つめ、佳乃は眉をひそめる。
 ビータは眉間に皺を寄せると、眼光鋭くネノフを睨みつけながら裏口から台所の中へと入って来た。
「やだ、やだやだ! 何それ? なんの話? 佳乃ママがいなくなっちゃうなんて、嫌っ!」
 大声でそう捲くし立てるビータに、ネノフは眉を寄せて声をひそめる。
 まずはビータを落ち着け、声をひそめさせなければならない。決定事項ではないとはいえ、自分達の会話は他の子どもにとっても歓迎しがたい内容だ。ビータと同じように騒ぎ出すことは、火を見るよりも明らかだろう。
「佳乃の来る前の生活に戻るだけよ」
 ネノフは膝を落とし、ビータと視線を合わせる。ネノフがビータの肩に手を置き宥め始めると、ビータはその手を払いのけた。
「でもやだ! ママは子どもじゃないもん! 貰われてったりしないから、ママなんだもんっ!!」
 自分の肩を捕まえようとするネノフから逃げ、ビータは佳乃の腕を掴む。しっかりと両手で捕まえ、どこへも行かせないぞ、とでも言うように力を込めた。
「ねえ、ママ。どこにも行かないよね? ここに居るんだよね? だって、ここのママだって、この前言ってたよ?」
「それは……」
 ビータの言葉には心当たりがある。
 癒しの力を得た日に、ザイの父親に対してきった啖呵だ。
作品名:トランバンの騎士 作家名:なしえ