トランバンの騎士
この世界で暮らし、孤児院で不慣れながらも家畜の世話を手伝ううちに佳乃は獣の匂いにも慣れ、今では豚とでも一緒に眠ることができる。――できれは、寝たくはないが。
佳乃はランプの明かりを頼りに家畜小屋の隅に積まれた干草を整え、今夜の寝床を作る。
ランプの火が干草に燃え移らないようにと、最新の注意を払いながら荷物を解き、古い毛布を取り出す。そのまま毛布を体に巻きつけて干草のベッドに身を横たえ、ランプの火を消した。
明日も朝から歩き始めると考え、早速眠りにつこうと堅く目を閉じ――土を蹴る足音に、佳乃は眉をひそめる。
(……?)
微かに聞こえる足音に、佳乃は耳を澄ませた。
足音は一つ。
とても急いでいるのか、時々躓いては足音が乱れる。
(何かあったのかな?)
遠くから段々近づいてくる足音に佳乃が耳を澄ませていると、足音の種類が変わった。どうやら村長の家に設けられた木製の階段を駆け上がっているらしい。ポクポクという柔らかい足音に、何事か叫んでいる声が聞こえた。地面近くに接しているため、足音を拾いとることはできたが、話し声までは聞き取れない。
(……こっちに来る?)
足音の主が何事か母屋で叫んだ後、急に方向を変えたらしい。慌てていると判る乱暴な足音は、佳乃が身を横たえている家畜小屋の方へと近づいてきていた。
佳乃は横たえたばかりの体を起すと、家畜小屋の入り口へと顔を向ける。
丁度、家畜小屋の前で足音が止まった。
(盗賊……だったら、足音は消すか)
それでなくとも、母屋からは争うような音は聞こえてはこなかった。
佳乃が首を傾げながら入り口を見つめていると、木製のドアを打ち壊す気かと思えるほど乱暴なノックが響く。
「シスター! 怪我人だ! すぐに起きてくれっ!!」
一軒の家の前に案内され、佳乃は促されるままに寝室へと入った。
むせ返る濃い血の匂いに佳乃は一瞬だけ眉をひそめ、燭台の明かりに照らされた室内を見渡す。
夫婦の寝室なのか、2つあるベッドの一つに男がうつ伏せに寝かされている。その横には看病をしている女性が一人立っていた。おそらくは、佳乃を呼びに来た男の妻だろう。
佳乃は男の寝かされているベッドに近づき、見下ろす。
どうやら、一番大きな傷は背中にあるらしい。顔を含め包帯はほぼ体中に巻かれているが、背中に巻かれた白い包帯が、血を吸って赤く染まっていた。赤黒く変色している箇所はない。ということは、男の血はいまだに止まらず、新鮮な血が流れ続けているということだ。
「……っ!」
うつ伏せに寝かされているため、顔の見えない男の惨状に佳乃は目を伏せる。
普通であれば助からない怪我だと、素人目にも判った。
「頼むよ、シスター。こいつは俺のダチで……」
「やってみますっ」
家畜小屋まで自分を呼びに来た男の言葉を途中で遮り、佳乃はベッドに横たわる男の背に手をかざす。
一分一秒を争う時に、嘆願など聞く意味もなかった。
佳乃は背に手をかざしたまま、軽く目を閉じる。
両腕に女神を現出させることにも慣れてきた。
一度でも女神の力を借りることに成功し、その回数を重ねるようになると――何故『癒しの奇跡』を扱える人間が少ないのかが、逆に理解できなくなる。
少なくとも、佳乃が助けを請う女神アステアはとても優しい存在で、請われればすぐに無償の愛を持って力を貸してくれた。
佳乃は怪我人にかざしていた手を下ろし、心の中で女神に感謝を捧げる。力を借りれば借りるほどに強さを増す『癒しの奇跡』は、治癒にかかる時間もだんだん短くなってきた。
「……終わりました」
佳乃がそう告げると、男とその妻はホッとため息を洩らし、ベッドに横たわる男を見下ろす。その視線につられ、佳乃は再び横たわる男へと視線を移し――僅かに既視感を覚えて眉をひそめる。が、包帯の巻かれた男の顔からは既視感の正体が判らず、佳乃は口を開く。
「この人、呼吸がしやすいように仰向けにしてあげてください」
「あ、ああ……」
佳乃に促され、男は怪我人の呼吸を確かめて安堵の笑みを浮かべた。
先ほどまでに比べ、随分と呼吸が楽になっている。
男は佳乃に背を向け、怪我人の体を仰向けにし――上を向いた見覚えのある顔に、佳乃は瞬く。
「……って、ヒックスさんっ!?」
「ヒックス! 大丈夫かっ!?」
呻きながらも薄目を開けて周囲を見渡すヒックスに、男は安堵の笑みを浮かべる。
「……ここは?」
ヒックスはゆっくりと辺りを見渡すが、見覚えはない。
いや、古い記憶を探れば微かに見覚えがあるような気もした。
自分を覗き込んでいる男の顔にも見覚えがある。長く会ってはいなかったが、幼馴染が成長したらこんな顔になるだろう。そう思い至り、ヒックスは眉をひそめた。
そうだ。目の前で自分を覗き込んでいる男は、間違いなく自分の幼馴染だった、と。
「何寝ぼけたこと言ってんだ。おまえの生まれた村だろ?」
「そうか……」
安堵の笑みを苦笑へと変えた幼馴染に、ヒックスはベッドに横たわったまま自分の手を見つめた。血が滲んでいる包帯が巻かれていたが、痛みはない。多少気怠い気はしたが、それだけだ。
「……今度ばかりはダメかと思ったんだが」
自分に対して剣を振り下ろした男の顔を思いだし、ヒックスは眉をひそめる。
自分が対峙した男は、たとえ知り合いであろうとも戦場でまみえた相手に手心を加えるような男ではない。その豪腕から振るわれる剣を受け、間違いなく致命傷を負わされたはずだが、自分は生きている。それも、少し気怠いと感じる程度で。
じっと自分の手を見つめ、開いたり閉じたりと体の調子を確かめているヒックスに、幼馴染はヒックスの疑問に答えを提示した。
「癒しの奇跡を使えるシスターが村に来てるって聞いたから、来てもらったんだ。おまえの知り合いなんだろ?」
「俺の知り合い?」
幼馴染の言葉にヒックスは眉をひそめる。
そしてその背後に、幼馴染が自分の顔を覗き込んでいるために隠れていた修道服姿の娘を遅れて見つけた。
馴染みのない色の修道服を着てはいたが、黒髪に黒い瞳の娘には見覚えがある。
「……なんで、あんたがここにっ!?」
驚きのあまり反射的に体を起こし、ヒックスは貧血からすぐに前のめりに体を曲げた。
それを横で見ていた佳乃は瞬き、静かに告げる。
「出血が凄かったみたいですから、しばらくは安静にしていた方がいいと思いますよ?」
佳乃に医学の知識はないが、包帯を見る限りヒックスの出血は相当なものだ。おそらくは貧血だろうと判断し、そう告げる。傷口は女神アステアが塞いでくれたが、女神の治癒では失われた血までは戻ってこない。
広がることはなくなったが、相変わらず赤く染まったままの包帯を見下ろし、佳乃は眉をひそめた。
「……何があったんですか?」
村人の蜂起を煽っていたヒックスが負った怪我となれば、その答えはだいたい予想できた。村人や傭兵を使い、トランバンを強襲したのだろう。そして、そこで領主の護衛隊に返り討ちにあったのだ。