トランバンの騎士
目を伏せた佳乃に、ヒックスは言い淀む。孤児院を出ているということは、佳乃は以前のように『何も知らない』訳ではない。イグラシオがしている『仕事』も、トランバン領内がどういう雰囲気に包まれているのかも知っているはずだ。そして、自分が太刀傷を負ったとなれば――答えは隠しようがない。
自分の顔と包帯を交互に見つめて言い淀むヒックスに、佳乃は自分の想像が間違っていない事を確信した。
「背中の傷は……」
「情けねーだろ? 騎士が背中に傷を……」
正々堂々と戦う事を旨とする騎士が、背中に傷を受けるということは、相手に背を向けた――逃げ出した――という証拠だ。
そう苦笑いを浮かべ、言葉を逸らそうとするヒックスを佳乃は無視した。
「イグラシオさん、ですか?」
騎士としての強さなど、佳乃には解らないが。
佳乃の中のイメージでは、騎士は傭兵よりも強い。やめたとはいえ、元騎士であるヒックスに致命傷を与えられる者など、イグラシオぐらいだろう。もしかしたらエンドリューでも可能なのかもしれないが、おそらくはエンドリューによる傷であれば、ヒックスは言葉を濁さない気がした。きっと、傷を負いながらも自慢げにエンドリューを誉めるだろう。そう思う。
じっと目を逸らさず自分を見つめる佳乃に、ヒックスは肺に溜まった空気をすべて吐き出すかのように深いため息をもらした後、覚悟を決めた。
「容赦なしだったぜ。さすが団長ってところだな」
「……そうですか」
予想はしていた言葉であったが、ヒックスの言葉にやはり佳乃の気持ちは沈む。
旅をする間、立ち寄った村で聞いた閃光騎士団の噂は、以前ヒルダに聞いたとおりの悪い話ばかりだった。
「お嬢ちゃ……」
「とにかく!」
そっと顔を逸らした佳乃にヒックスは気遣わし気に口を開くが、逆にそれを遮られてしまう。
「今は休んだ方がいいです」
貧血から前かがみになっていたヒックスを手伝って頭を枕の上にのせ、佳乃はヒックスの額に手のひらを重ねる。僅かに熱い。
「熱があるみたいですし、傷口は塞がりましたが、血をいっぱい失っていますから」
そう言いながら、佳乃は顔を上げてヒックスから体を離した。
「じゃあ、日が暮れるまでにはその村につけるんですね?」
「はい」
ヒックスの幼馴染とその妻から、心ばかりの朝食を振舞われ、出発のための身支度を整えた佳乃は孤児院から持ってきた古地図で現在地を確認する。
孤児院にあった地図は古く、今では廃村となった村が記載されていたり、逆に新しくできた小さな村が記載されていなかったりと、なかなかに頼りがない。ヒルダに会った際にそれを指摘され、彼女に解る範囲で修正をしてもらったのだが、やはりその付近に住む住民というのも心強い。なんといっても、村人の説明からは徒歩での距離感までもが得られる。それが心強かった。
ハイランドへの道筋に村を一つ追加し、佳乃が本日の旅程を確認していると、開いているはずのドアがノックされる。
「邪魔するぜ」
「ヒックスさん。もう起きてきて大丈夫なんですか?」
昨夜はぐるぐると巻かれていた包帯を全て取り去り戸口に立つヒックスに、佳乃は驚いて首を傾げた。
確かに、傷はアステアの力で塞がってはいるはずだが、貧血から回復するには早すぎる気がする。
「おうよ。お嬢ちゃんの癒しのお陰で、傷自体はもう塞がってるしな」
「でも、傷は塞がっても、血や体力は早々回復するものじゃないですよ?」
そう眉をひそめて注意を促す佳乃に、ヒックスは朗らかに笑った。
「元騎士様の体力を甘くみるなよ? 一晩ぐっすり寝れば、あれぐらいなんてことねーぜ」
胸を張ってそう主張するヒックスに、佳乃は苦笑する。
まだまだ本調子には見えないが、悪くないのも確かだろう。
「でも、まだあまり無理はしないでくださいね」
「わーてるよ」
ちくりと忠告する佳乃をヒックスは笑顔で交わしながら、部屋の中へと入って来た。
「それで、だ」
本題はここからだ。
朝食の終わったテーブルの上へと広げられた古地図に一度視線を落とした後、ヒックスは佳乃を見つめる。
「なんでムサリルの孤児院に居るはずのお嬢ちゃんが、ここにいるんだ?」
「……わたしが孤児院を出るのって、そんなに不思議ですか?」
そういえば、街道で再会したヒルダにも同じ事を聞かれた。それを思い出し、佳乃は首を傾げる。
「不思議ってか……お嬢ちゃんがあそこから出て生きていけるとは思わなかったからな」
ヒックスの佳乃に対する印象は、決して良い物ではない。
学問という意味ではそれなりに知識があって考える力もあるが、どこかのん気で世間知らず。生活力がなく、誰かの――例えば、イグラシオや孤児院そのものの――庇護下から出てしまえば、とたんに食料の供給源を失い、飢えて死んでしまうのではないか。
そんな最悪な印象しかない。
微妙な微笑みを浮かべたヒックスに、佳乃は言外に込められた意図を汲みとって苦笑を浮かべる。
確かに、これといって手に職があるわけでもない自分が一人で旅を続け、あまつさえなんとか日々の食事にありつけているのは、癒しの力のお陰だ。
これも誰かの――この場合は女神アステアの――力によるところだろう。
「で、なんだって孤児院をでたんだ? 余程の事情があるんだろ? 場合によっちゃ、力になるぜ? 助けられた恩もあるしな」
そう捲くし立てるヒックスに、佳乃は首を傾げる。
どう説明したら良いものか、自分の考えに自信もなかった。
自分はただ、ハイランドまで行って、あとどのぐらい待てばイグラシオが開放されるのかが知りたかっただけだ。そこに深い意味も、思惑もない。
が、よくよく考えれば『王様』等という者にそうそう会えるはずがなかったし、王位継承の噂を聞きたいだけにしても、それだけではなんの解決にもならない。
ネノフにトランバンへ行けと背中を押され、イグラシオの為に何かできないかと、それだけで孤児院を出てここまで来てしまっていた。
今更ながら改めて気が付いた事実に、佳乃は首を捻る。
なにやら上機嫌に見えるヒックスには悪いが、彼が喜ぶような話をできるとも思えなかった。
「えっと……ハイランドに、行こうと思って」
散々悩んだ後、佳乃はは目的地だけをヒックスに告げた。
ハイランドまで行って、何をどうしたいのかまでは、佳乃の中で考えが決まっていない。
「ハイランド? あの騎士の国か?」
「……こう、なんていうか……?」
聞き返すヒックスに促され、佳乃は懸命に考えを纏める。
進められるまま、流されるままにここまで来てしまったが、目的地に到着するまでその状態に甘んじていては、着いた後でまた膠着してしまう。
佳乃がしたいことをもっとも単純に考えれば、イグラシオに恩を返すことだ。
役に立ちたいとまで贅沢は言わないが、自分にできることがあるのなら、なんでもしたい。
その恩のあるイグラシオには悩みがあり、悩み原因は悪評高い領主に仕えていることだ。
簡単に考えれば、早々に見限った方が良いのは誰の目にも明らかなのだが、『騎士道』を重んじるイグラシオには自分から『主』を捨てることができない。