トランバンの騎士
イグラシオが納得しそうな、と条件をつけるのならば、最良の材料が一つあった。
「そうです! ウェイン様にはすっごくお世話になったので、ご恩返しをしないうちには、帰れません!」
これは良い案だ。
これならば『ウェインの騎士』となったイグラシオには、佳乃に帰れ等とは言えないはず。
名案が浮かんだ。
そうパッと顔を輝かせて顔を上げた佳乃の『名案』を、イグラシオは僅かに首を傾げただけで一刀両断に叩き伏せる。
「ウェイン様への恩なら、私がおまえの分まで働いて返しておく」
だから気にすることなく、孤児院へ帰れ。
言外にそう告げられて、佳乃は肩を落とす。
せっかく良い案が浮かんだと思ったのだが、イグラシオには通じなかった。
「ううっ……」
名案をきっぱりと斬り捨てられて、佳乃は憎々しげにイグラシオの喉仏を睨む。
他になにかイグラシオを納得させるような理由がないかと思考をめぐらせて見るが、一番効果があるであろう『ウェインのために』という申し出が却下された今、何を言っても無駄な気もした。
それに、自分がいてもあまりイグラシオの役に立てないことは知っている。
「……ウェイン様以上に恩のある人は、時々とってもとっても我慢をする人なので、側にいないと心配です」
結局、これといってイグラシオを説得する良い案が浮かばず、佳乃は素直な感情を吐露した。
佳乃の言う『恩のある人』が自分だという事にイグラシオはすぐに気がついたが、イグラシオが何かを言おうと口を開く前に佳乃がそれを遮る。
「ほら、わたし、傷を癒すぐらいならできますから」
「……恩を着せるつもりで助けたのではない」
だから、いつまでも気にされては困る。
困るのだが――佳乃の申し出は嬉しくもある。癒しの力を持つ僧侶は貴重であったし、何より佳乃が側にいることは好ましいとすら思っていた。が、まだ内々の話ではあったが、ウェインはこれから他国にも行軍すると言う。隣国はおろか、おそらくは大陸中にわたる行軍に、佳乃を連れまわすことは躊躇われた。
なんとか佳乃の口から孤児院へ帰ると言わせようと、イグラシオは言葉を探す。
佳乃が孤児院へと帰らざるを得ない理由を。
「……それに、孤児院にはおまえに懐いている子ども達もいるだろう。特に、ミューなど……」
すでに二ヶ月以上会っていない孤児院の子ども達を思い浮かべ、イグラシオは眉をひそめる。
乳飲み子のミューは、佳乃の柔らかな胸がお気に入りだった。あの雨の夜、佳乃に対して劣情を抱いたことに気まずさを覚え、トランバン付近での暴動鎮圧に忙殺されるふりをして孤児院への足を遠ざけていたが。いったい佳乃はどのぐらいの期間孤児院を離れているのだろうか。女性の身で徒歩の移動。馬を使った旅路以上に時間もかかっているはずだ。
これは、本格的に佳乃を孤児院へと返さねばならない。
眉をひそめたイグラシオに気がつき、佳乃は反撃を試みる。
イグラシオの危惧することは、孤児院を出る前に佳乃も危惧したことだ。
「イグラシオさんは、最近村に来てないから、知らないでしょ? イパさんの奥さんに赤ちゃんが生まれたから、ミューにとてはわたし、お払い箱なんですよ」
孤児院を出る少し前に、村に新しい命が生まれた。
その母親となった女性が本物の母乳を分けてくれるし、乳首も好きなだけ吸わせてくれるので、ミューにはもう佳乃は必要ない。元々、孤児院に預けられた者には人見知りをする暇がなかったし、助け合いを基本とする小さな集落で、母乳の出る者が母乳の出が悪い母親に代わり乳を与えることは当然の行為だ。他人の子に母乳を与えることに対し、イパの妻には抵抗がなかった。
それでなくとも、ミューはそろそろ乳離れをする時期でもある。
佳乃の口からしばらく足が遠のいていた村の近況を聞かされ、イグラシオは言い淀む。
「だが……」
「心配してくれてるだろうし、顔を見せるぐらいなら付いていきますが、そのまま孤児院に置いていくなんて、嫌ですよ?」
なにやら思考に沈むイグラシオに、佳乃は勝利を核心した。
「それと、いつかわたしの帰る場所まで送って行ってくれるって約束、忘れていませんか?」
僅かに眉を寄せた佳乃に、イグラシオは『意図的に忘れていた』事を思い出す。
最近は忙しくて、佳乃の出自を探してもいなかった。
「……そういえば、思い出したのか? おまえの帰る場所を」
「何度も言いますけど、帰る場所は最初から忘れていませんよ?」
ただ、真実の方が誤解を受けそうな内容であるため、あえて積極的にイグラシオの誤解を解こうとしなかっただけだ。
佳乃の言葉に、イグラシオは渋面を浮かべる。
相変わらず、佳乃の言う意味がわからないのだろう。佳乃とて、未だに信じられはしない。
「場所は『忘れていない』けど、帰る方法が『わからない』だけです」
渋面を浮かべたままのイグラシオに、佳乃は腹を決めた。
ボルガノを討つ際に、イグラシオは佳乃に『関わってよい』と認めてくれた。
今度は佳乃の番だ。
深入りするのが怖いだとか、異常者扱いされるのが怖いだとか、逃げるのはもう止める。どんなに時間がかかろうと、馬鹿にしているのか? とイグラシオを怒らせてしまおうと、お互いが同じ理解に至るまで根気強く話そうと。
「方法がわからないんだから、こっちから方法を探しに行くのもありだと思いませんか?」
『世界』をまたぐ方法など見当もつかないが、それでも孤児院で大人しくイグラシオを待っているよりはいいだろう。トランバンでは判らないことでも、トラッドノアあたりならば何か書物でもあるかもしれない。
従軍するための理由を探していたのだが、偶然にも名案へとたどり着き、佳乃は満面の笑みを浮かべた。
元の世界に帰りたいとは、今でも思っている。
この世界が自分の世界ではないとも、知っている。
が、『帰りたい』という単純な感情の話であれば、やはりあの孤児院に対しても抱いている。
すでに、あの場所も佳乃にとっては『帰りたい』場所なのだ。
満面の笑みを浮かべる佳乃を、イグラシオを眩しそうに目を細めて見つめる。
それから二度目のため息をつくと、苦笑を浮かべた。
「……大陸中を探すつもりか?」
「はい」
間髪いれずにそう答えた佳乃に、イグラシオは苦笑に呆れの色を滲ませる。
本当に、預ける場所を間違えた。出逢った頃に比べ、随分と逞しくなってしまった、と。
「それで、大陸中を探して、方法が見つからなかったらどうするつもりだ?」
苦笑を浮かべながらそう聞くイグラシオに、佳乃は少しだけ考える。
どの道、『世界をまたぐ方法』等、探し方からして見当がつかない。見つからなくて当然の物を探すのだ。成果がなかったとしても、さほどの落胆はない。
「その時は、今度こそ孤児院に送っていってください。わたし、なんだかもう……あそこも自分の家な気がします」
首を傾げながら答える佳乃に、イグラシオは苦笑を深めるが、少しだけ誇らしい。
自分の家を、佳乃もまた『自分の家』だと感じていたことが。
それから考える。
やはり、佳乃は自分にとって『妹』なのか、と。
考えてはみるが――今ならば、『違う』と判った。