トランバンの騎士
「……佳乃」
「はい?」
佳乃を孤児院へと戻すことは諦めた。
結局は、自分も佳乃を側に置いておきたい。
イグラシオは首を傾げている佳乃の手を取り、手のひらへと唇を落とした。
「キスの意味を覚えているか?」
「えっと、手の甲が尊敬、手のひらがお願い、頬が親愛、額が挨拶……?」
突然手のひらに唇を落とされ、佳乃は反射的に頬を染める。
まさか、突然手のひらにキスをされるとは思ってもいなかった。
そして、キスの意味を覚えているかと聞かれ、イグラシオが手のひらにキスをしたということは、なにか『お願い』があるのだろう。
イグラシオからの『お願い』を、会話の流れから考えるに――『お願いだから孤児院へ帰ってくれ』といったところか。
佳乃は上気した頬を隠すことも忘れてイグラシオを見上げる。
あくまでイグラシオが孤児院へと帰れというのならば、のらりくらりととぼけてやる、と腹に力を入れた。
「……そういえば、手首への意味は思い出したんですか?」
佳乃としては、話をはぐらかすために『あの夜』の約束を引っ張り出してみたのだが。
佳乃の問いに、イグラシオはニヤリと笑った。
「今夜、ゆっくりと教えてやろう……」
ちゅっと音を立てて佳乃の手首に唇を落とし、イグラシオは方法が見つからなかったら孤児院へと帰ると決めた佳乃に腹を決める。
「今じゃダメなんですか?」
どうやら、イグラシオはすでに自分を孤児院へと送り返す気は無いらしい。
そう気がついて、佳乃は小首を傾げる。
「私は今からでも構わないが、おまえがおそらく嫌がるだろう」
「???」
瞬く佳乃に意味が通じていないことは判ったが、あえて説明はしない。『今夜』『ゆっくり』教えると決めた。ついでに『たっぷり』と『じっくり』を追加してもいいかもしれない。
わけが判らないながらも、なにやら上機嫌になったイグラシオに佳乃は首を傾げ――考えることをやめた。
考えなくとも、今夜ゆっくりと教えてくれると本人が言ったのだ。となれば、無理に探りを入れなくても、いずれ答えを聞くことはできる。
それに『ゆっくり』という事は、時間を取ってくれるのだろう。
その時に、ついでに自分の出自について説明してみるのも良いかもしれない。
最初はきっと、信じてくれないだろう。
でも、いつかはきっと信じてくれると佳乃はイグラシオを『信じて』いる。
イグラシオの隣を連れ立って歩きながら、佳乃はこっそりと笑う。
トランバンは開放され、イグラシオの苦悩は取り除かれた。
とりあえず、人心地といったところか。
当面の自分の方向性も決まった。
とりあえず。
本当にとりあえずだが――
これで良い、と佳乃は隣の男を見上げる。
その腰に、ウェインから下賜された剣が誇らしげに揺れていた。