アヤカシ
「ならエエんやけど……最近よく視界がブレんねん。見えとるんは学校の廊下やのに…色がオカシイんや。」
ナナシは遠くを見つめながら話す。
恐らく今も視界に異常が発生しているのだろう…。
『…ナナシ、悪いけど今日はソータイしてくれないか?』
大勢の人間の思念や感情が渦巻く学校にいるより家で篭っていた方が守り易いと説明したギンタに、ナナシは直ぐに頷いた。
視線の先にいるのは頭の半分をグチャグチャにして、血を流しながらニタニタと嗤う女子高生の自爆霊。
その嗤いに嫌な予感を感じる。
仮病を使って早退したナナシは帰り支度を済ませ速やかに帰路についた。
自宅まであと数百メートルのといったところだろうか…その時だ、ギンタの存在が、一瞬、消えたのは。
「ギン、タ?」
目の前を移動していたギンタが今、確かに、視界から消えた。
直ぐに戻ったとはいえ、こんなことは今までに一度もなかったのだ。
最近増した妖怪との遭遇率と相まって、ナナシの心は一気に不安に煽られる。
「ギンタ、ホンマに、ホンマに大丈夫なんか?」
『……-、…―――。』
「ギンタ…?」
どうにも可笑しいギンタの様子に、恐る恐る手を伸ばす…。
が、ナナシの手がギンタに触れる前に変化が訪れた。
歓迎し難い変化が。
―パキリ、
スナック菓子を折った時の音と、少しだけ似ている。
ナナシがそう思った次の瞬間、辺りは黒一色になっていた。
「んな?!」
上も下も、右も左も、音も光もない黒一色の世界。
『…っくしょぉ。』
いつの間にか片膝をついていたギンタが険しい顔で悪態を吐く。
『“闇狭間”に、引き摺り込まれたっ。』
ヤミハザマ、闇の狭間?
「(引き摺り込まれた?)」
ギンタは今、確かにそう言った。
誰に?
そんなの決まっている。
今日一日、自分は何から逃げていた?
「う、あ…ああぁっ。」
目の前に、大きな手が現れる。
暗闇のせいで本体までは見えないが、手の大きさからして、体調は裕に3メートルを超えているだろう。
迫り来る掌に、鋭利な黒い爪に身体が恐怖で埋め尽くされる。
『ナナシっ!』
ギンタがナナシと手の間に入り込むが…、
『ぐあっ。』
小さな体は勢いよく横に殴り飛ばされてしまった。
鋭い爪が、顔に迫る……。
――何をしている。
“闇”が、喋った。
巨大な手を防ぐのは木でできた柄。
その先につくのは仄かな明りを灯す提灯。
目の前にあるのは、闇に燃える紫の焔。
『ここは闇狭間、異界と現の理を忘れたか?』
攻撃を防がれた一つ目の巨人が唸り声を上げる。
闇に溶けてしまいそうな程小さく、静かな声なのに、言葉の一つ一つに言い様のない圧力を感じた。
『…役目を棄て、理を侵したお前はもう戻れないだろう。ならばその無様な姿をさらし続ける前に、俺が貴様を祓ってやる。』
巨人もナナシと同じ圧を感じ取ったのだろう。
唸り声は咆哮に変わり、爪の着いた五本の指は一つの鋭い刃に替わった。
だが、
刃は振りかざされることなく炎に包まれる。
炎はまるで生き物の様に、獲物を丸ごと呑みこまんとする蛇の様にズルズルと巨人の体を這い回っているのだ。
最早此方に敵意を向ける暇もない。
苦悶の声を上げ、全身で苦しみを訴える巨人の手は完全に焼け爛れ、一部白い骨が覗いている程。
『……もう、苦しみたくはないだろう?』
その問いに返って来た音は肯定か否定か…。
ナナシは目の前の“闇”が笑った様な気がした。
―チリーン、チリーン、
涼やかな音が、周囲に溢れる闇を導く。
『―闇へ帰せ。』
一度の瞬きの間に、ナナシの視界から一つ目の巨人が消え失せていた。
「…………………。」
極度の緊張のせいだろうか、ナナシの口から出て来たのは声ではなく、耳障りな程に擦れた呼吸音のみ。
目の前の“闇”が、茫然と腰を抜かして座り込んでいたナナシを振り返る。
ナナシが焔だと思ったのは黒い布地に描かれた模様で、闇は人と同じ容をしていた。
人の容をした闇は、何も言わずナナシの顔の前に鈴を差し出し、一度鳴らす。
―チリン、
ナナシがその音を聞いたのは、自分の家の庭の隅だった。
「あ…?」
空は既に陽が落ち、月が真上に浮かんでいる。
「よる?え、何で?さっきまで……。」
ギンタの言う闇狭間に引き摺り込まれる前、空はオレンジ色だった筈。
「…えー?」
「ナナシ?!アンタそこで何やっとん!?」
「うおわっ!!?」
行き成りピシャーン!と開いた窓と怒声に、ナナシはとび跳ねた。
「こんな時間になるまで遊び歩きおってからに!とっとと家入りぃ!」
次やったら閉め出すで!!と窓を閉めた母親に、これはマズイとナナシは湧き上がる疑問を捨て置き、玄関へ急いだ。
結局あの晩、ギンタはナナシの前に姿を現さなかった。
「(っちゅーか、巨人に吹っ飛ばされた後から姿見ぃひんし…。)」
まさかあの一撃で死んでしまったんじゃ…と顔を青くするナナシの視界の隅に、何かが映った。
ヘラヘラと笑った顔が。
『オーッス、無事かナナシー。』
「そらぁこっちのセリフや!」
思わずツッコんでから、ナナシは慌てて周囲を見回す。
普通の人にギンタ達妖怪や幽霊の姿は見えないし、声も聞こえない…ヘタしたら行き成り大声を上げた不審者扱いされること間違いなしだ。
「…(良かった、誰も居らへん)ギンタも、無事やったみたいやね。」
どこか消えそうな程弱々しかった昨日のギンタは何処へやら、妙にご機嫌で存在感バリバリで元気そうなぬらりひょんの姿が、そこにはあった。
『まぁな!ちょーっと色々あったけど、もう大丈夫だ。』
<ちょーっと>の部分がやたらと気になるが……まあそれは、今はいいだろう。
『それより!今日からオレお役目に戻ることにしたから。』
「へ?お役目?俺の護衛とか宝玉は?そっちのけ??」
『違う違う!ナナシの護衛もちゃーんとやるさ。』
ギンタ曰く、日中ならギンタが付きっきりでいる必要はないらしい。
『はいコレ。』
渡されたのは手触りの良い、美しい刺繍の入った羽織。
『その羽織にはオレの妖力が染み付いてる。日の出てる間ならそれだけでも十分目晦ましとか威嚇になるから、わざわざオレが見張ってる必要はないんだ。』
「じゃあなんで今まで一日中俺にくっ付いとったん?」
『…………。』
「……思い付かんかったんやね。」
『今日からお役目復帰だ~、久し振りだから感覚鈍ってないと良いなぁ。』
「さよけ…ホンなら俺、もう学校行くわ。」
『行ってらー。ソレ、常に羽織っておけよ~。』
霊感ない奴には見えないし触れないからー、それがあればナナシがどこにいるのか大体解るからー、でもまっすぐ家に帰れよーと言い残して、ギンタはスッと姿を消した。
言われた通りに渡された羽織を身に着け、ナナシは学校へ向かう。
まだ自分の中から宝玉を取り出せたわけでもないのに、ギンタがいないというだけで今までの日常が帰って来た様な気がする…。