スーパーノヴァ
彼女と再会したのは、部屋のエアコンが壊れてとてもじゃないけどパソコンの前でじっとはしていられなくなった、夏の日のことだった。
エアコンが壊れたその日、僕は即座に業者に電話したものの、業者は「すぐには行けない」と非情な答えをクールに寄越してきたので、今日明日にどうこうするのは諦めた。僕の諦めが早すぎるわけではない、暑いときに抵抗する体力がなかっただけだ。
エアコンが壊れればこの真夏に部屋に居ることは出来ず、強制的にパソコンとも離される。そもそもあんな気温の中でパソコンを起動させるのも恐ろしいものがあるし、たまにはパソコンのない生活もいいだろう。
ところが僕は、自分で思っているよりずっとパソコンに依存していたようで、買っただけで読んでいなかった分厚い小説を読み始めても、途中で知らない慣用句が出てくればネットで調べようと思ってしまったし、もっと軽く読みやすい本を読みたいと図書館に行く事を思いついたが開館時間が分からず、またもネットで調べようとしてしまった。
無論、携帯電話をネットに繋ぐ事だって出来るけど、結局自分がネットに縛られているような気持ちになってきて、財布だけ持って図書館に行ってみることにした。
のたのたと這い出るように家の玄関を開けたところで少し後悔が始まり、炎天下で太陽の光を避ける術を探すも見つからずに焼かれるがままになった長い信号待ちの間に後悔は倍以上に膨れ上がった。もはや何に対抗しているのかも分からないが、途中のコンビニもファミレスも全部素通りをしてたどり着いた図書館は、大体僕のような人間がリビング・デッドのように、やっぱりのたのた歩いていた。中に入ると、汗が冷えて心地がいい。子供や年寄りの利用が多いからか、空調はきつすぎず快適だった。
目的の本棚に辿りつく前に、運よく空いた椅子に腰を落としてしまうと、いよいよ本格的に動けなくなる。普段から体力作りなどすることもない僕は、数値化すればきっと同じ年齢の奴らより遥か下に位置しているのだろう。他の利用者の邪魔にならないように手足を伸ばし過ぎないように座って、目を閉じると、まだ日も高いのに眠れてしまえそうだった。
じわり、と表皮に浮かぶ汗を思う。外の暑さと比べてなんてここは気持ちがいいんだ、と、その外をわざわざ歩いてきておきながら、得した気持ちになる。自分から炎天下に出てきておきながら、妙な話だけども。
ふと、誰かに声を掛けられた気がした。名前を呼ばれたような、それとももっと、「あの」とか「すみません」とか、そういう簡単な言葉だったのかもしれない。
それで僕は顔を上げた。白い女の子が立っていて、図書館の柔らかい光に溶けそうだった。ずいぶん小さい子のようにも見えるし、僕と同じくらいの年齢にも見える不思議な雰囲気だった。僕はこの子に似た人を知っている。
「……何か」
何か……何か、何だろう。僕は軽く目を閉じていたつもりだけど、眠ってしまっていたのかもしれない。それくらい僕はぼんやりしていた。
何かありましたか、と言うには、僕も彼女もじっとしているから、何かがあるわけがない。それとも、どうかしましたか、と言えば良かったのだろうか。そうだ、そっちかもしれない。
彼女は、白く細い指を、す、と延ばして僕の横を示した。
「あ、すみません、邪魔でしたね」
僕が座った木の丸椅子の後ろには哲学の本が陳列されていて、この子が読むにふさわしいとも思えなかった。何となく、外国の、人の死なない物語を読んで欲しいように思ったからだ。
立ち上がって椅子をどけてやると、彼女は手を伸ばすでもなく、じっと立っている。探している風ではない、視線は一点に集中していたからだ。
「良かったら、取りましょうか」
もしかして取れないのかな、と気づいてやれたのは奇跡に近い気がした。普段から友人連中や家族には「気の利かない奴だ」と言われている僕なので、こんなに澱みなく親切の言葉が出てくるのは珍しい。奇跡だなんて大げさな、などと思わないで欲しい、慣れないこと、どころか、知らない人に助け船を出すなんて初めてのことなのだから。
彼女は僕の申し出に何度か瞬きを繰り返し、それが一層、僕が知っている子に似ていると思った。
「どれ?」
「……上から二段目、左から十五冊目の紺色の本」
静かな声だった。図書館だから、というのではなく、どこででも彼女の声はこれ以上響くことはなく、しかしどんな空間ででもきちんと届くだろうと思わせる声、声に色が付いていないイメージだった。やっぱり、僕の知っている彼女だろうか。
確かに彼女の背では届くはずもないその本を取ってやって、
「これで良かったかい、長門君」
と言葉を添えて渡すと、今度は瞬きもなく、じっと僕を見つめる宇宙のような真っ黒の目があった。
「覚えていたの」
「制服のところしか見たことがなかったから、声を聞くまでは自信がなかったけど……変だな、君はどこも変わってないのに」
隣に立つと、高校の頃を思い出す。僕らコンピ研の殺風景な部室に、彼女はそっと現れて、僕が用意していた彼女専用の端末を立ち上げ、僕らコンピ研の部員の視線をまるで気にすることなく恐ろしい速さでキーを叩いていた。
僕がこんな風に懐かしいと思うように、彼女が思っているかは分からない。「久しぶり、お茶でもどう?」などと軟派な発言は僕にできるわけがなく、できたとしても彼女相手にはやっぱり躊躇われるのだ。彼女はとても静かな人で、お隣のSOS団とやらで活動しているときも意見をしているところを見たことはなかった。僕が知る範囲で意見をしなかったわけではなく、どこででも同じことだろう、と思わせるような静かな人だった。
僕が思い出に浸りつつある間、彼女は黙って僕の隣にいた。他に探しものがあるのかも、この後の用事のことも僕は知らないし、僕のほうの都合も彼女が知るわけはないのだが、何故だか僕には、僕が彼女を誘うのを待っているように思われた。黙ってじっと見上げられたら誰だってそう思うものかもしれないが、それもよく分からない。何分、こちらに経験値が無さすぎて、過去の対応例から引っ張ってくることもできない。
「あの、長門君」
「なに」
「もし、昼ご飯がまだだったら、一緒にどうだろうか。その、僕の方はちょっと時間を持て余していて、付き合ってもらえると嬉しいんだけど……」
「…………わかった」
彼女は頷いたような雰囲気だったけど、僕にはよく見えなかった。これがSOS団一緒だった連中なら、彼女の仕草くらいちゃんと見分けてやれるのだろうかと思うと何だかおもしろくない。SOS団には男子が二名ほどいたけど、彼らのどちらも長門君の作るプログラムの素晴らしさ、美しさを理解しているとは思えないのに。