スーパーノヴァ
長門君に「外で待っているから、本を借りてきたらいい」と言うと、今度は僕にも分かるように縦に頷いた。細い肩と小さな頭、髪はあの頃と変わらないショートカット。僕らの周囲で彼女持ちの奴はほとんど居なくて、現実の女子に対して夢を抱く奴も居なくて、その代わり二次元やらアイドルやらに対しては夢を見すぎているきらいがあるが、それでも長門君はコンピ研でも人気があった。誰も長門君を彼女にしたいとか、萌えるとか、もっと下衆な反応を見せたりはしなかったけど、彼女が部室に訪れると皆、少しだけ背筋を伸ばした。マドンナ、とも違う。正しくアイドルではあったかもしれない。
彼女の組み立てるプログラムは驚くほど美しかった。無駄はなく、一行の狂いもなく、癖もなかった。癖が出ないのが癖だ、と評しても良いくらいだった。その彼女が僕に対して、もう一つディスプレイが欲しいとか、メモリの増強を求めてきたとき、僕は気分の高揚を抑えるのに努力を必要とした。僕が部長を努めていた以上当たり前なのだが、あんな隙のないものを作り上げる彼女に必要とされていうような錯覚を起こしていたのだろう。
再会した彼女が、今もプログラムをいじっているかは分からない。元々はSOS団なんて得体の知れない団体の組織員だった訳じゃない彼女は、僕が知る範囲でもよく本を読んでいたから、今はまた読書の趣味に没頭しているのかも知れない。ああ、これは後で聞いてみよう、と、話のネタをストックしたところで長門君が出てきた。本をむき出しで二冊、持っている。
「長門君、手ぶら?」
「カードは持っている」
言って、彼女は本と本の間に挟んだ図書館の貸し出しカードを見せてくれた。片面が透明になっているパスケースに入っているカード、要するに長門君は手ぶらで、パスケースだけむき出しで持ってきたわけだ。
全体的に白っぽい服装の彼女が手ぶらで本を持っているのはシュールすぎた。元々シュールな子ではあったと思う、そういう奇妙な部分があったから涼宮ハルヒ(久々に思い出した、そうだ、SOS団を仕切っていたのは涼宮ハルヒだ!)とつるんで居られたんだろう。
余計な世話だろうかと迷ってから、コンビニで紙袋でも買い与えようと決め、彼女を連れて炎天下にコンビニまで行った。あまり彼女に似合うようなものはなく、代わりにエコバッグを買った。僕はエコバッグの類が好きではなく、もっと言うと嫌いだったが(だって今のように、バッグをいつものレジ袋に入れる始末なのだ、……これはこの店員の気の回らなさかもしれないけど)
、再会したばかりの子に急に渡すには気負わず良いのではないかと思ったのだった。
「これ、使って」
よくよく考えたら、彼女の昼食後のスケジュールだって知らないのに、かさばらないバッグとはいえ迷惑だったかもしれない。彼女は僕とバッグを交互に見やり、
「いい。わたしは困らない」
と言った。
「……そうか……本を入れるのにちょうどいいと思ったんだけど、すまなかった」
生成色のごく普通の生地に、紺色で小さく英単語がプリントされているシンプルなものを、僕も持て余してしまって小さく折り畳んで手で持った。誰かが見ていたら僕は確実に笑われていただろうが、こんな日差しが強すぎる日中に他人を見て笑うほど気分に余裕がある人もいない。
僕は彼女と並んで近くのファミレスに行った。道路沿いに並んだ、マンゴーフェア、の橙色と青のコントラストの利いた幟がまぶしい。
「マンゴーフェアか。僕は苺の方が好きだな……」
暑さのせいで、つい独り言となって思考が漏れてしまったが、彼女は特に何のコメントもなかった。僕が会話をしたかったわけじゃないことを察してくれたのかもしれない。
まばらに客が入った店内で、僕と彼女は窓際のテーブル席に案内された。クーラーが効きすぎた店内は、外気との差が激しくて僕はぶるりと震えてしまった。
「……寒い?」
「あ、うん、大丈夫」
まさか彼女に心配をされるとは思わず、それが形だけかもしれないのに、僕はまた少し舞い上がってしまった。彼女の、その呟くような小さく細い声で心配をされてしまった、彼女が僕を見ていた、それが嬉しいわけだ。
これまでの人生で、取り立てて彼女が欲しいと思いはしても自分から行動に出たことのない僕は、考えてみれば女の子と二人きりでご飯に来るのも初めてだった。
メニューを見終わって注文もしてしまうと、また間が空いてしまう。緊張してるんだ、と話すのも変だし、僕は何度か口をむずむずさせていたが、彼女は人形のように、しん、と黙っていた。僕たちのテーブルがそんなだったから、近くの席の若い母親と幼稚園に上がる前くらいの子供の声が余計に大きく耳に届く。
そうだ、と思って、彼女に
「そういえば、もうプログラムは組んでいないの?」
と訊いてみた。
「パソコンがないから」
彼女は背をぴんと伸ばしたまま、そう答えた。
「もったいないな……あんなに美しいものを、あんなスピードで書いてたのに……」
「……ありがとう」
どういたしまして、と返事をするものか分からず、僕は「うん」とだけ言った。中途半端な返事で格好悪い。ありがとう、という言葉を聞けた僕の方がお礼を言いたいくらいだというのに。
それからぽつぽつとプログラミングの話と、最近買った専門書の話をして、彼女が興味があるらしい反応はどうやら凝視と瞬きで分かりそうだと気付き、僕の方はたくさん収穫があった。料理が来てからの彼女はいっさい喋らず
、もりもりもくもく食べていた。
「……デザート、マンゴーだらけだけど、食べるならどうぞ」
財布の中には確か、万札が一枚入っていたはずだ。彼女の意外な食欲を満たしてやれるほどではないように思うけど、さすがにお釣りが来ないような注文をするならストップをかけようと思っていた。だいたいの計算だと、今、会計は四千円前後のはずだ。久しぶりの再会で一万円分も奢ってやれるほど裕福ではないのだった。
長門君は、三角形にして立ててあるデザートのポップを見て、それから僕を見て、
「いいの?」
と尋ねてきた。
「一つだけなら」
「分かった」
どこか、小さな子を相手にしているときと似ている。よく食べる子がデザートを頼む、それを微笑ましく思う気持ちと似ているのだった。
ウェイトレスが持ってきたマンゴーパフェを彼女は少しも怯むことなく綺麗に片付けた。僕はランチセットに付いてきたアイスコーヒーを飲みながらその様子を見守り、おしまいに彼女が「ごちそうさまでした」と手を合わせたのを見て、また、じんとしてしまった。
ごくごく小さな感動だった。これが長門君以外の人にも向けられるようなものかも分からない。比較の対象がないのだ。とにかく僕にとっては二人きりで食事をするのも、手ぶらだからと心配するのも、ごちそうさまの一言に心が解れるような気持ちになるのも初めてだった。
凍えるような店内を出て、ああ、もう別れるのかと思うと残念だ。表情に出したつもりはなかったが、彼女はまた僕の言葉を待つように向かい合ってじっと僕を見ていた後、
「また会える?」
と言った。
また会える?