風の少女
黒い鳥
「あ……」
新緑の香りを運ぶそよ風に、お気に入りの帽子を攫われ、幼い少女は空を見上げる。
ゆったりと風に弄ばれながら、踊るように舞い飛ぶ白い帽子。
青い絹のリボンに飾られた、先月父親が誕生日プレゼントにとくれた物だ。
「待って」
気紛れな風が少女の言葉に従うはずがなかったが、それでも少女は叫ばずにはいられなかった。
短い手足を振って、帽子を追い掛ける少女。目の前に降りてきた帽子を捕まえようと手を伸ばすと、また風に攫われる。
まるで、風に遊ばれているようだった。
幼い少女は理不尽な怒りを感じ、頬を膨らませたまま懸命に帽子を追い掛ける。
しばらくそんな追いかけっこをくり返していたが、それもやがて終わる時が来た。
「だめ。落ちちゃう」
広い庭園にある、小さな池の上に帽子が舞う。
ふわりと弧を描き、今まさに着水しようとする帽子に、少女はぎゅっと目を閉じた。
新しい帽子をこうも早くダメにしてしまった自分に、父はなんというだろうか。
きっと、悲しそうな顔をする。
お転婆娘と呆れて、怒ってしまうかもしれない。
しかし、ここで帽子を諦めても、何もなかった事にはならない。
小さな池とはいえ、子供が入るには十分危険な深さがある。
誰か大人を呼んで来て、帽子をとってもらおう……っと、覚悟を決めて開いた目に、池に浮かんだ惨めな帽子は映らなかった。
かわりに目に映ったのは、黒い鳥。
鳩ほどの大きさの鳥が、少女の白い帽子を捕まえていた。
少女はその不思議な光景に、瞬く。
不可思議な白と黒のコントラスト。
白い帽子を捕まえたまま、飛び去る様子を見せない黒い鳥に、少女は無駄とわかっていながらも、話し掛けた。
「帽子、返して。私のモノなの」
すると、不思議な事がおこった。
その鳥はまるで言葉を理解したかのように、少女の頭の上に帽子を落とした。
自分の頭に戻った帽子を、少女は今度こそ飛ばされまい、としっかりと押さえた。そして、そのどこかまぬけで愛らしい姿勢のまま、空を見上げる。
黒い鳥は、まだそこにいた。
「……ありがとう」
言葉が通じたとは思えなかったが、くるくると頭上を旋回している鳥に少女がお礼をいうと、ちらりと鳥が自分を見た気がした。
そんなはずはない。
気のせいだろうと、少女は鳥に手を伸ばす。
その小さな手に、鳥は吸い寄せられるように止まった。
不思議な事があるものだ。
鳥が人間の願いを聞くだなんて、まるで魔法のような出来事。
少女の両親は魔術師であったが、そのような魔法があるとは聞いた事がない。
「え? なぁに?」
黒い鳥の嘴(くちばし)が震える。
鳴き声は聞こえない。
それでも少女には、その鳥の『言葉』がわかった。
なんて利口な鳥だろう。
少女は目を丸くして驚き、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「お父さま〜」
幼女の高い声に呼ばれ、書斎にいた父親は庭に目を向けた。
小さな手のひらがふたつ、出窓のガラスを叩いている。
「どうした、エレクラ?」
ガラス戸を開くと、アッシュブロンドの髪が揺れた。
窓辺りを握り、背伸びをしているのか、ゆらゆらと揺れる小さな体。
父親を見上げるエレクラの濃い紺の瞳は、なにやらとても楽し気だ。
「お友だちができたの」
はにかみながら微笑む愛娘の頭に手を添える。
「それはよかった。……どんなお友達だい?」
「当ててみて」
優しく髪を梳きながら考える。
今日、この屋敷にきている客人に、はたして娘と友達になれるような年齢の者がいただろうか、と。
思い当たる者はいなかった。
それでは下働きの子供だろうか、とも考えたが、それならば今日改めて「友達ができた」と報告してくるのはおかしい。
答えの見つからないらしい父を、エレクラは楽しそうに見つめていたが、やがて空を見上げ、そこにいる『友だち』に声をかけた。
「来て」
窓辺りから手を離し、天にかざす。
そのかざされたエレクラの白い小さな手に、黒い鳥が音もなく舞い降りた。
「この子、さっき帽子を捕まえてくれたの。すごくお利口なの」
すごいでしょう? と新しい友達を自慢する無邪気な娘の微笑みに、父親は目を見張った。
ただの鳥でない事は、一目でわかった。
人の言葉を解し、鳴かない鳥。
鳥の象徴は風。
風の魔力を帯びた、使い魔。
どこかから風の一族が忍び込み、娘によからぬ謀を仕掛けてきたのか? という考えも頭を過ったが、違う。
否定したい。
目の前の事実すべてを、否定してしまいたかった。
でも、遅すぎた。
気付いてしまった。
自分の娘が何者なのか。
「お父さま?」
腕にとまった鳥を凝視している父親を不審に思い、エレクラが首をかしげる。
「お父さま!」
早く自分を抱き上げて部屋に入れてくれ、と催促するためにエレクラは父の袖に手をのばした。
頼りない幼子の小さな手。
その愛娘の小さな手が、今はまるで化け物の手のように感られた。
汚らわしい一族。
呪われた風の一族の娘。
父親は咄嗟に娘の手を払い飛ばした。
何が起ったのか、エレクラにはわからなかった。
ただ大好きな父親に拒絶された事がショックだった。
拒絶した一瞬の後悔、その後のまるで違う生き物を見るような嫌悪の瞳。
それだけが、印象に残った。
その拒絶が、父の記憶の全てになった。
何も知らずにいた時間の、愛されていた記憶は、綺麗に忘れさられた。
あるいは歪められた記憶として残った。
そして幼子は、父の血を捨て、母の血を選んだ。
自分と同じ属性を持つ、母だけを。