風の少女
水の伯爵
(あの頃は馬鹿だったんだ。あの父に愛されたいなんて……)
あの日、知らず始めて『使い魔』を呼び出した日から、エレクラの世界は変わった。
それまで仲睦まじく見えた両親は憎しみ合い、母親はエレクラに惜しみなく愛情と風を操る術を注ぎ、父親は『病弱な娘』と偽ってエレクラを屋敷の外に出さなくなった。
「……こんな物が、まだあったんだな」
父が館を自分に譲り、別邸に移った時から閉ざされていた部屋。
父が用意した使用人をすべて辞めさせ、娘を館に閉じ込めるために張られた水の結界も、全て塗り替え……そこまで徹底して館を作り替えても、その部屋だけは何も変わらず、幼い記憶のままそこにあった。
メイドが掃除に立ち入る事すら禁じた場所。
穢らわしい思い出が沢山ある書斎。
目の前にある肖像画も、その一つだ。
幸せそうに笑う、家族の肖像画。
4年前に死んだ母と、2・3才の自分を膝にのせた父。
記憶にある父の顔は、どれも自分の娘を視界から追い出すように細められた目をしていたが、絵の中の父は本当に幸せそうに微笑んでいる。
その作り物のような微笑みに、ふつふつと沸き上がる想いがあった。
胸の奥がもやもやとして、気持ち悪い。
そのくせ、きゅっと胸を締めつける様なやるせない想い。
エレクラはいらだちに任せ、手近にあった本を掴み、肖像画の中の父に投げ付けた。
「おや?」
予期せぬ声に驚き、エレクラは振り返る。
今は自分意外の誰もいないはずの館に、来訪者がいた。
来訪者と言うよりも、侵入者と言ったほうが正しいだろう。
明るい金髪に蒼い瞳の……人の良さそうな紳士が、書斎の入り口に立っていた。
「ルファーヌ家の、エレクラ姫……かな?」
ちらりとエレクラを見つめ、肖像画に視線を移し、最後に床に落ちた本をみた。
「なるほど、噂通りの病弱な姫だ」
「……たいした病弱さだね」と付け足された言葉に、紳士が見た通りの性格でない事がわかる。
そして、エレクラは目の前の紳士が何者であるか、やっと思い当たった。
水の一族の至宝ジェリーブルーが乗り出すまでの騒動を起こした館だ。何があったのか興味がなくとも、面目上『視察』に来ないわけには行くまい。
目の前に立つ紳士には、その責任があるはずだ。
「ただの『エレクラ』だ。二度と私をルファーヌの名で呼ぶな。……水の伯爵」
まだまだ幼さが抜けきらない少女とその腕に止まる黒い鳥に睨まれ、水の伯爵は肩を竦めた。
炎の一族を巻き込んでいったい何をしたのか、正直興味はなかった。が、目の前の少女は別だ。
ルファーヌ家は水の一族。
その生粋の水の属性を持つはずの娘が、何故風の象徴たる鳥を従えているのか。
実に興味深い。
興味深くはあったが、ただの『お家事情』である事に違いはない。
おおかた一族意外の者、それも魔術師の間で最も忌わしい一族とされる風の民を娶ってしまったのだろう。
少女からは水の気配は感じない。
母親の血だけを継いだのだろう。
異なる属性の親を持った子供には、父母どちらかの属性だけが引き継がれる。
それ事態は珍しくない事だ。
「では、エレクラ姫。今回の騒動のあらましを聞かせてはくれないか?」
「聞いてどうする?」
さして興味がなさそうな水の伯爵に、答える気のないエレクラ。
当然、会話はなりたたない。
「仕事だからね。水の領域で起った事は、知って置かなければならない」
「水の領域、か?」
「一応ね」
純粋な意味で、ここはもう『水の領域』ではない。
水の王子が呆れ、憤怒するほど……エレクラが滅茶苦茶にしてしまった。
水の領域でありながら、淀んだ風の濃い空間。
探るように目を細める少女に、水の伯爵は内心微笑んだ。
実に子供らしくない子供だ。
つんつんと尖っていて、取りつく島もない。
胸を張りぞんざいに物を言う態度は、まるで大人と同じだ。
少女の大きな態度は気に触ったが、その自信に見合うだけの魔力を持っている事は、腕にとまった『使い魔』を見ればわかる。
風の一族の中で稀にしか生まれない、力と才能をもった者『鳥使い』。
色々な意味で将来が楽しみな、危険な子供。
「まあ、いいか。炎の指輪の主たちに、誰がどんな悪戯を仕掛けようが……私の知ったことではないし……」
「でも……『一応』ルファーヌ家の当主には伝えておくよ」と、さもついでとばかりに言葉を付け加える水の伯爵に、エレクラはますます目を細めた。
ほんの少し会話を交わしただけで、相手の弱点を正確に見抜き、容赦なく攻め立てて来る。
嫌なタイプだ。
この紳士は穏やかな雰囲気と心を解かす微笑みで相手を信頼させ、次の瞬間には地獄を見せるのだろう。
実に人畜有害。
「『お前が閉じ込めたつもりの娘は、今なお自由に闊歩している。私を野放しにしてくれてありがとう、お父様』……とでも伝えておいてくれ。あの臆病者に」
一族を率いる宝玉や番人が訪れるまでの事件がおきても、自分は決して姿を見せない父親。娘のしでかした不祥事に、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉ざして無関係を通す父親。
風の力を継いだから、水の力が憎いのではない。
拒絶されたから、拒絶するのではない。
無関心なら、それでよかった。
視界のすみに映すのも嫌だと言うのなら、それでもかまわなかった。
必要・不必要問わずなんでも与え、誕生日などの行事には欠かさず贈り物をよこし、自分から近寄ることをせず器用に娘が近付いて来る事を拒んだ父の怯えた目。
それがたまらなく不愉快だった。
「残念ながら、それはできないよ。」
言葉ほど残念そうではない水の伯爵の微笑み。
「伝えてあげたくても、君の『臆病者』の父上は……もうこの世の人ではないからね。さすがの私も…死者の国まで行く事はできないな」
そのあと水の伯爵とどんな会話を交わしたのか…ほとんど覚えていない。
ただ去り際に「今度はもっとうまくやるんだね」と揶揄とも激励ともとれる言葉を残し、水の伯爵は姿を消した。