どうしてこうなった
開けてみるとさっき居間でみつけたシールによく似たものが入っていた。どうやら漫画を描くのに使う道具のようだ。あのメガネ野郎の置き土産ではなかったと知って、俺は心の底から安堵する。
ほっと息をついた瞬間、机の下のごみ箱にかぴかぴになったティッシュが大量に詰まっているのが見えて、俺は激しく目をそらした。
「驚きました?」
日本がくつくつと笑う。
「お、おう、さすがの俺様もこれには驚きだぜ…」
「気持ち悪いとお思いですか?」
先ほどと同じ言葉。
確かに普段見られない日本の顔を見てしまった気はする。少なからず驚いてもいる。
けれど、気持ち悪いかと問われれば決してそのようなことはない。
むしろここまで一つのことに打ち込める情熱は尊敬に値すると思うし、なによりも、戦い、奪い、殺すことしかできない俺の手と違って、日本の手からは誰かを楽しませ、心を動かすものが生まれるのだ。
どうしてそれを気持ち悪いと思えるだろう。
「いや。むしろすげーよお前。漫画ってよくわからねぇけどよ、かなりうまいと思うぜ。これ全部お前が描いたのか?」
顔の横で揺れる原稿をつまむ。少年がぼんやりと、雨にけぶる窓の外を見ていた。
「ありがとうございます。フランスさんやハンガリーさんが手伝ってくださることもあるんですが、今回は2人ともお忙しかったようで」
「ふうん」
おもしろくない。
俺の知らないところで仲良くしやがって。
けれど日本は嬉しそうに恥ずかしそうに笑うので、そんな気持ちもしゅるしゅると溶けていった。
「次からは俺も誘えよな。俺様はいつだって駆けつけるからな。そんでフランスやハンガリーなんてめじゃないくらい働いてやるぜー」
「はい。期待していますよ。ではとりあえずこの×印が描いてある所を黒く塗りつぶしていってもらえますか?」
「おう、任せろ。素晴らしく美しく塗りつぶしてやるぜ」
「はいはい。よろしくお願いしますね」
混沌とした部屋の中から小さなちゃぶ台をひっぱりだし、日本が手渡す仕事を黙々とこなしていく。
最初はなかなかうまくいかなかったが、1枚また1枚とこなすうちにだんだんと慣れてきて上達していく。するとどんどんと作業が楽しくなってきて、知らず知らず俺は作業に没頭していた。
最期の1枚を塗り終えて、ふと顔を上げる。
窓ガラスの向こうには、紫がかった紅のような深い蒼のような空。かすかに差し込む光で、部屋はまるで影絵のようになっていた。
「…日本?」
薄紅い光に照らされながら、部屋の主は机に伏して寝息を立てている。
穏やかな寝顔だった。
「よかった」
癒えきっているわけではないのだろうけれど。未だ傷が疼く日もあるのだろうけれど。
それでも、悪夢にうなされるよりはよっぽどいい。
「夢の中までは助けに行けねぇもんなあ」
そう言いながら黒い髪にそっと触れる。思っていたよりも少し硬い。
けれどするするとなめらかに指の間を抜けていって、こんなところまで本人に似ていると思って少し可笑しくなった。
「日本…」
起きてほしくて、でもそのまま眠っていてほしくて、賭けるような気持ちで名前を呼ぶ。
日本は目を開けない。
賭けに勝ったのか負けたのかはよく分からないけれど、眠ったままだというのなら、もう少しだけ触れていてもいいのかもしれない。
自分を納得させるようにそんなことを考えながら、もう一度黒髪に手を伸ばす。
さらさらとした感触がいとおしくて、指の間から逃げていくのがもったいなくて、つい、そう、つい唇を寄せた。
やわらかい髪の匂いが鼻をくすぐって、日本が空気を吸って吐きだす音がやけに近くに聞えた。
俺は今、いったいなにをした?
自分のしたことを理解した瞬間、心臓は痛いくらいに高鳴って、顔は驚くほど熱くなった。
日本は、まだ起きない。
俺は敷きっぱなしの布団の上からタオルケットをはぎとって日本にかけてやった。
そして逃げるように部屋を出てドアを閉め、ずるずるとしゃがみこんだ。
耳の奥でざわざわと血の流れる音がする。
この音が落ち着いたら、日本に晩飯を作ってやろうと思った。