どうしてこうなった
その様子はまるで怯えているようで、またぐらりと怒りがわいた。
「隠してんだろ!」
びくり、と日本の肩が震える。
それをみて我に返った。俺は一体なにをしているのか。
日本を怒鳴りつけて、日本が隠しておきたいことを無理やりに暴こうとして。
「…悪い。俺もう帰るわ」
このままここにいたら怒りにまかせてもっと日本を傷つけてしまいそうな気がして、俺は日本の返事も待たずに立ち上がり玄関へと向かった。
「え、ちょ、ちょっと待ってくださいプロイセン君、待って」
日本の慌てた声が追いかけてくる。
「今日は急に来ちまって悪かったな。次来る時はちゃんとメールするぜ」
「あ、あの、待ってください…今日は本当に私、失礼なことばかりで…ちゃんとしたおもてなしもまだ…」
「いいよ、次で。次来たとき今日の分までめいっぱいおもてなさせるから、覚悟しとけよ」
いつものようにケセ、と笑おうとしたけれど、息がのどにはりついて失敗した。ああ、想像以上にダメージを受けている。
隠しごとがただひとつ。たったそれだけ。誰にでもあるものだろうに、俺はそれを許せない。それを許せない自分もまた、許せない。
「プロイセン君…」
不安そうな声。死ぬほど困った顔。
久しぶりに見るその表情がおもしろくて、やっとのこと少しだけ笑えた。
「そんな顔すんなよ。またな」
ぐっと日本が息をつめた。目を丸く見開き、かと思うとしゅるしゅると伏せる。そしてそっと口を開いた。
「プロイセン君、こちらへ」
日本が、俺の手をとる。
そして家の奥へと引っ張った。
「え…」
繋がれた手。汗ばむ指。少し低めの日本の体温。
それらの感覚が指を伝って全身を巡り、心臓のあたりをそっと締めつけた。
そしてまた俺は居間に座らされる。
先ほどのお茶はもうとっくにぬるくなっていて、日本は冷蔵庫から新しいお茶をボトルで持ってきた。それを新しいグラスにそそぎながら言う。
「プロイセン君。私はずっとあなたに隠していたことがあるんです」
日本の瞳は伏せられたまま、決して俺の眼を見ない。
「お、おう」
俺も日本の眼を見られない。茶を注ぎ、グラスをソーサーにのせて出しと動き続ける指先をじっと見ている。
「これを言ったら嫌われてしまうのではとずっと恐れてきました。けれど私も日本男児です。いつまでもあなたを欺き続けるくらいなら、嫌われてしまってもかまわない」
隠しごと。言ってしまったら俺が日本を嫌いになるくらいの。いったいそれはどれほどのものなのか。
考えて、何度か考えて、しかし結局同じところに辿りつく。
「…嫌わねぇよ。俺がお前を嫌いになることなんて絶対にねぇ」
そう。俺がこいつを嫌うことなんてきっと永遠にない。
今だって、久しぶりに聞いた日本の率直な言葉が、覚悟が、こんなにも嬉しい。
日本は泣きそうな顔で笑う。
それが悲しみから来るのか、安心から来るのか、俺にはわからない。
けれどその顔を見て、俺は少しだけ安堵した。
そして日本が口を開く。
「実は私…ヲタク…なんです」
うるさいくらいの蝉の声。風が吹くたびにちりちりと響く風鈴。庭を流れる水の音。
2人の間に降りた沈黙は意外にもにぎやかで、俺は思わず日本に問い返す。
「なんだって?」
「だから私、ヲタクなんですよ」
開き直ったのか、先ほどよりもはっきりと日本は言った。
「オタク?」
「はい」
「オタクって…あれか? 漫画とか読んだりアニメみたり、『モエー』って言ったり、コスプレしたりする…」
最近そっち方面に染まってきた悪友2人を思い浮かべる。
「さすがプロイセン君、お詳しいですね。最近では踊ったりもします」
「おど…お前が?」
「いえ、さすがに私は踊りません。あれは老体には堪えますから」
まるで一度やったことがあるかのような口ぶりだ。
「そのかわり、拙いながらも漫画を描いてみたり、動画を作ってみたり…やはり私は身体を動かすよりも机の前で手を動かす方が合っているようで…」
そこまで言うと日本はすっと瞳を上げた。
俺もついつられて眼を上げる。
光を閉じ込める黒い瞳と、目線がかちあった。
「気持ち悪いとお思いですか?」
強い瞳だ。
嘘を許さないまっすぐな瞳。
まあ、嘘を言う気も取り繕う気も毛頭ないが。
「別にいいんじゃねぇ? お前が何が好きでも気持ち悪いとか思ったりしねぇよ」
日本はしばらく俺をじっと見ていたが、やがてほっとしたように目元をゆるめた。
「ありがとうございます」
蕾がほころぶ程度の微かな笑顔。けれど不思議と見る側を安心させる。
強い瞳。やわらかな笑顔。
このふたつの間に一体何があるのか気になって目が離せなくなったのはもう100年以上も昔のことだ。
恥ずかしながら今も修羅場真っ最中なんですよ、と日本は恥じらうようにすこし顔を赤らめて笑う。
「シュラバ?」
「はい。少々締め切りに追われてまして。だめですね、この歳にもなっててんで計画性がなくて」
「ああ、確かにお前、段取りとか苦手だよな」
おおまかにスタートとゴールだけを決めて根性だけで走り出してしまうところがあるから、いつも途中で道に迷い、それでもがむしゃらに走ることをやめない。それでいて誰かに頼ることは本当に苦手で。
だから放っておけなくなってしまうのだ。
俺が助けてやらないといつかどこかで倒れてしまうのではないかと、思う。
俺に出来ることはもうそれほど多くはないけれど、それでもできるだけのことをしたいのだ。
もう二度と、日本から笑顔が消えないように、できるだけのことを。
「じゃ、じゃあさ、俺、手伝おうか?」
そう思って申し出たら、日本の顔がひきつった。
「え」
「…え?」
「原稿を…ですか?」
「おう。…だめか?」
「だめじゃないですが…その…あー、少々びっくりされるかもしれませんねぇ…」
「びっくり…?」
日本は苦笑いを貼り付けたまま立ち上がり、どうぞこちらへ、と短く言った。
階段を上り連れてこられたのは、普段は鍵がかかっている日本の自室。
かちゃりと日本が鍵を開け、ドアを開く。
「げぇ、汚ぇ!」
思わず声が漏れた。
「修羅場ですから」
日本は笑って部屋の中に入っていく。俺もそのあとに続いたが、歩きにくいことこの上ない。
床の上には所せましと紙や布きれが散乱し、その隙間から内容が一発で想像できそうな本やゲームが覗いている。
裸の女性が汁まみれになっているのが見えて、俺は思わず目をそらした。
先ほど着ていたジャージやTシャツが脱ぎ捨てられている下では朝食用だったろう食器が米粒をかぴかぴとこびりつかせていた。
下着類もけっこうな数落ちていて、俺はやっぱり目をそらした。
天井近くにはロープが張られ、洗濯バサミで何枚もの紙(おそらくあれが原稿だろう)を吊るしている。
机の上は割と片付いていて、左手におそらく資料であろう分厚い本が積まれ、右手にはペンやら定規やら、何に使うのかよくわからないヘラやらがひとまとめにペン立ての中に入っていた。インクや絵具も割と整理されている。上段にはパソコンと複合型プリンタが乗っていた。
机の横には棚があって、引き出しにはそれぞれ数字を書いたシールが貼ってある。