Go West!
ベラベラベラとその子供が話したのは英語だった。
ちょっと過激な愛国心の持ち主が聞けばそれだけで殴りかかられそうな言葉。
どんな間違った顛末で取り残されたのかは分からないが、切り揃えられた栗色
の髪は少々パサついて縺れていた。
白目がブルーがかりそうなほど澄んだ色をして、そこにうるりと涙を溜めてい
るものだから、これは天使の脅迫としか思えない。
何しろ、その見知らぬ子供は――全く、嘘偽りなく見知らぬ赤の他人の子供は
――偶然通りかかった公園のベンチでちょいと一服を楽しんでいたギルベルト
のスーツの裾をがっしりと掴んでいるのだ。掴んだまま、うるんだ天使の瞳で
ギルベルトを見上げて、Mammyと最初に言ったきり黙ってしまった。
「……おい、迷子か?迷子だよな?母ちゃんはどうした」
ドイツ語で、努めて平静に聞いてやる。頭の中では次に取るべき段取りを考え
ながら。警察が常道だ。しかし何で英語なんだ。ドイツ人じゃないのか?
ぐるぐる考え巡らせながら、ギルベルトは掴まれたスーツをぐっと逆に引っ張
り取り戻そうとしながらも言葉だけは親切にゆっくり発音してやる。
「はぐれたのか?もしかして観光客か?」
しかし少年の手はまるでそれが命綱かのようにがっちり指を握ってしまってい
る。ギルベルトはそれ以上手を振り払うことが出来ず、ぐしゃぐしゃに握りつ
ぶされるままにドイツ語で再度尋ねる。
もちろん英語は理解できるが、知りたいのはこの子供がドイツ語をどの程度解
するのかというところだった。
「観光客……にしては薄汚れてんな。今までどこに潜ってたんだ」
よく見れば髪には楡の木の葉がついている。仕方がないと葉をつまんでやりな
がら、何も答えない少年に、さすがに可哀相になってこれだけと思いながら、
Where have you been hiding?とでき得る限りの優しい声音を出してやった。
途端に表情が崩れた少年は、Mammy,Mammyと更に強くジャケットを今度は
両手で握り締めて泣き出し、あまつさえぐいぐいと腰の辺りに顔を押し付
けてきた。
ああもう仕方ねぇなぁ、といつかの昔にはしょっちゅう口にしていた言葉を久
しぶりに心の中で呟いた。
警察に連れて行くのが正しい。西側からのお客様の子供なら届けが出て
いるだろうし。でも、もし万が一もっと複雑な事情があったらどうする。
この子供にではなく両親に。
その思いがギルベルトの足を警察署に向かわせず、ちょうど販売時間になって
いたワゴン売りのアイスクリームの行列に並び、二つ買って結局元のベンチへ
戻ってしまった。
「複雑な事情ってもなぁ」
たとえば西と東で離ればなれになったドイツ人とアメリカ人の夫婦の子供で、
東に残ってしまったドイツ人の母は何とか父のいる西へ亡命しようと壁を越え
る手段を模索するグループに加わり、捕らわれるか逆に先に西へ逃れたが、そ
の過程でうっかり我が子とはぐれてしまった、とか?
「はは……、そんな映画いつか誰かが作りそうだな」
いつか、この国がまた一つになる日が来るのなら。
自分のいやに具体的な想像を一笑いで霧散させ、隣でミルクのアイスを舐める
子供の小さな丸い頭をなぁ、と小突いた。
「名前なんつーんだよ、名前」
英語で言ってやればいいものを、何故かギルベルトは意地になってドイツ語を
使う。一音ずつ区切ってみたり自身を指差して「ギルベルト」といってみたり、
実に無駄な労力を費やしてやっとの事で少年の名前を聞き出した。
やたら手間がかかったのはギルベルトの意地のせいばかりではなく、どうやら
少年は少しばかり言葉の発達が遅い子供であるらしかった。
だけどその名前は呼ぶにはいくらか抵抗のあるものだったので結局ギルベルト
は少年の名を舌にのせる事はしなかった。
ゆっくりした動作でアイスを食べ終わる頃には液状化した一部がベタベタと手
首に伝い、それでも躊躇いなくギルベルトのシャツを握り直して安心したよう
ににっこり笑ったのには辟易した。
恐らく同年代の子供と比べても格段に手間のかかる少年を、明確な理由もなく
部屋においていた。拾った日は午後の雑事を残すばかりであったので、酷かと
思いつつもスタンドで買ったジュースとスナックを与え、公園で終業まで待っ
ているよう言い含めた。いなくなっていたら、それはそれで面倒事がなくなっ
たと喜べる。
しかし少年は、ギルベルトの淡い期待に反して残してきた場所から寸分違わな
いままそこにいて、結局は東ベルリンのフラットに連れて帰ることになった。
同じベルリンでもかつての屋敷とは比べるべくもないが、そう手狭でもない家
へ迎え入れてみると、とても一般の物差しでは計れない少年だという事が早々
に判明した。
ここにいろと言えば半日だってじっとしていられるところは大いに助かったが、
反面ギルベルトといる間は、無邪気さでは片付けられない奔放さで、俺の唯一
の子育てが成功裡に終わったのは神様の気まぐれかと膝を付きそうな敗北感を
味わっていた。
「ああっ!おっまえ、混ぜすぎだろ!卵が泡立ちまくってんじゃねーか」
琺瑯のボウルの中で、空気を含み過ぎて真っ白になった卵がもったりと角をた
てている。
「これじゃホットケーキにはならないよなぁ。貴重な卵が……」
少年はと言えば、取り上げた泡立て器をじっと見つめて、まだ泡立て足りない
様子だ。丸い目で見上げられると叱るに叱れず、卵は創意工夫により、もこも
このオムレツに化けた。
ドライフルーツ入りのシリアルを出してやれば驚くほどの入念さでレーズンと
刻みココナツを取り除く。
風呂に追いやれば二時間も音沙汰なく、どうしたのかと様子見に行ったギルベ
ルトに半分以下になったおろしたばかりだった筈の石鹸を嬉しげに差し出した。
かと思うとカラーキューブのオモチャをものの数分で攻略して見せたり、ピー
スが歪な出来の悪いジグソーパズルをひょいひょいと手を止めずに作り上げた
りと別の意味でもギルベルトを驚かせた。
「おまえすげーじゃねーか!」
ギルベルトが手放しに誉めてぐりぐりと頭をなでると少年は嬉しそうに首をす
くめて、それからがっしゃんと豪快に組み立てたばかりのパズルを床に叩きつ
けるとまた最初からピースを組み始めるのだ。
そんな不可思議さにも慣れた十日目の日曜日、ギルベルトは少年を連れて東ベ
ルリンを離れた。
ちょっと過激な愛国心の持ち主が聞けばそれだけで殴りかかられそうな言葉。
どんな間違った顛末で取り残されたのかは分からないが、切り揃えられた栗色
の髪は少々パサついて縺れていた。
白目がブルーがかりそうなほど澄んだ色をして、そこにうるりと涙を溜めてい
るものだから、これは天使の脅迫としか思えない。
何しろ、その見知らぬ子供は――全く、嘘偽りなく見知らぬ赤の他人の子供は
――偶然通りかかった公園のベンチでちょいと一服を楽しんでいたギルベルト
のスーツの裾をがっしりと掴んでいるのだ。掴んだまま、うるんだ天使の瞳で
ギルベルトを見上げて、Mammyと最初に言ったきり黙ってしまった。
「……おい、迷子か?迷子だよな?母ちゃんはどうした」
ドイツ語で、努めて平静に聞いてやる。頭の中では次に取るべき段取りを考え
ながら。警察が常道だ。しかし何で英語なんだ。ドイツ人じゃないのか?
ぐるぐる考え巡らせながら、ギルベルトは掴まれたスーツをぐっと逆に引っ張
り取り戻そうとしながらも言葉だけは親切にゆっくり発音してやる。
「はぐれたのか?もしかして観光客か?」
しかし少年の手はまるでそれが命綱かのようにがっちり指を握ってしまってい
る。ギルベルトはそれ以上手を振り払うことが出来ず、ぐしゃぐしゃに握りつ
ぶされるままにドイツ語で再度尋ねる。
もちろん英語は理解できるが、知りたいのはこの子供がドイツ語をどの程度解
するのかというところだった。
「観光客……にしては薄汚れてんな。今までどこに潜ってたんだ」
よく見れば髪には楡の木の葉がついている。仕方がないと葉をつまんでやりな
がら、何も答えない少年に、さすがに可哀相になってこれだけと思いながら、
Where have you been hiding?とでき得る限りの優しい声音を出してやった。
途端に表情が崩れた少年は、Mammy,Mammyと更に強くジャケットを今度は
両手で握り締めて泣き出し、あまつさえぐいぐいと腰の辺りに顔を押し付
けてきた。
ああもう仕方ねぇなぁ、といつかの昔にはしょっちゅう口にしていた言葉を久
しぶりに心の中で呟いた。
警察に連れて行くのが正しい。西側からのお客様の子供なら届けが出て
いるだろうし。でも、もし万が一もっと複雑な事情があったらどうする。
この子供にではなく両親に。
その思いがギルベルトの足を警察署に向かわせず、ちょうど販売時間になって
いたワゴン売りのアイスクリームの行列に並び、二つ買って結局元のベンチへ
戻ってしまった。
「複雑な事情ってもなぁ」
たとえば西と東で離ればなれになったドイツ人とアメリカ人の夫婦の子供で、
東に残ってしまったドイツ人の母は何とか父のいる西へ亡命しようと壁を越え
る手段を模索するグループに加わり、捕らわれるか逆に先に西へ逃れたが、そ
の過程でうっかり我が子とはぐれてしまった、とか?
「はは……、そんな映画いつか誰かが作りそうだな」
いつか、この国がまた一つになる日が来るのなら。
自分のいやに具体的な想像を一笑いで霧散させ、隣でミルクのアイスを舐める
子供の小さな丸い頭をなぁ、と小突いた。
「名前なんつーんだよ、名前」
英語で言ってやればいいものを、何故かギルベルトは意地になってドイツ語を
使う。一音ずつ区切ってみたり自身を指差して「ギルベルト」といってみたり、
実に無駄な労力を費やしてやっとの事で少年の名前を聞き出した。
やたら手間がかかったのはギルベルトの意地のせいばかりではなく、どうやら
少年は少しばかり言葉の発達が遅い子供であるらしかった。
だけどその名前は呼ぶにはいくらか抵抗のあるものだったので結局ギルベルト
は少年の名を舌にのせる事はしなかった。
ゆっくりした動作でアイスを食べ終わる頃には液状化した一部がベタベタと手
首に伝い、それでも躊躇いなくギルベルトのシャツを握り直して安心したよう
ににっこり笑ったのには辟易した。
恐らく同年代の子供と比べても格段に手間のかかる少年を、明確な理由もなく
部屋においていた。拾った日は午後の雑事を残すばかりであったので、酷かと
思いつつもスタンドで買ったジュースとスナックを与え、公園で終業まで待っ
ているよう言い含めた。いなくなっていたら、それはそれで面倒事がなくなっ
たと喜べる。
しかし少年は、ギルベルトの淡い期待に反して残してきた場所から寸分違わな
いままそこにいて、結局は東ベルリンのフラットに連れて帰ることになった。
同じベルリンでもかつての屋敷とは比べるべくもないが、そう手狭でもない家
へ迎え入れてみると、とても一般の物差しでは計れない少年だという事が早々
に判明した。
ここにいろと言えば半日だってじっとしていられるところは大いに助かったが、
反面ギルベルトといる間は、無邪気さでは片付けられない奔放さで、俺の唯一
の子育てが成功裡に終わったのは神様の気まぐれかと膝を付きそうな敗北感を
味わっていた。
「ああっ!おっまえ、混ぜすぎだろ!卵が泡立ちまくってんじゃねーか」
琺瑯のボウルの中で、空気を含み過ぎて真っ白になった卵がもったりと角をた
てている。
「これじゃホットケーキにはならないよなぁ。貴重な卵が……」
少年はと言えば、取り上げた泡立て器をじっと見つめて、まだ泡立て足りない
様子だ。丸い目で見上げられると叱るに叱れず、卵は創意工夫により、もこも
このオムレツに化けた。
ドライフルーツ入りのシリアルを出してやれば驚くほどの入念さでレーズンと
刻みココナツを取り除く。
風呂に追いやれば二時間も音沙汰なく、どうしたのかと様子見に行ったギルベ
ルトに半分以下になったおろしたばかりだった筈の石鹸を嬉しげに差し出した。
かと思うとカラーキューブのオモチャをものの数分で攻略して見せたり、ピー
スが歪な出来の悪いジグソーパズルをひょいひょいと手を止めずに作り上げた
りと別の意味でもギルベルトを驚かせた。
「おまえすげーじゃねーか!」
ギルベルトが手放しに誉めてぐりぐりと頭をなでると少年は嬉しそうに首をす
くめて、それからがっしゃんと豪快に組み立てたばかりのパズルを床に叩きつ
けるとまた最初からピースを組み始めるのだ。
そんな不可思議さにも慣れた十日目の日曜日、ギルベルトは少年を連れて東ベ
ルリンを離れた。