Go West!
夕飯の後には酸味ばかりの林檎を出してやった。船好きの王女が植えさせた、
あのポツダムの邸宅になるそれは見事な、スノーホワイトも一発で騙せる林檎
とは似ても似つかない代物だが、ないよりマシだ。
きっとこれは永遠じゃないと知っている。それでも終わりの兆しも見えない、
ギシギシと軋み続ける椅子に片足で立ち乗っているような生活は確かに鬱屈と
疲弊を招いた。やるからには立ち止まらず、を身上に今でも進んでるつもりだ
が、折々に思い知らされる自分が沈殿する澱だという事実からこの少年はほん
の一時、目を逸らさせてくれた。
栗色の髪と琥珀色の瞳の向こうにずっと透かし見る幻がある。
申し訳ないという謝罪の気持ちはなかった。ただ、この澱み続ける生活の中
で磨り減らされてきたものを、もう一度補ってくれる気がした。自分に、この
他愛もない子供をひとり、救えたなら。
ベストではなくベターでもなかった。むしろ少年には最もリスキーな最悪の道
だった。だけどギルベルトはどうしても自らのその両手で、何の権利も権威も
用いずに自分の両手だけで、救ってみせたかった。
誰でもない、自分に、教えてやりたかった。
まだお前にも人の幸福を造り出せるんだと。
ベルリンから北西へ数時間車をとばし、国境の街デーミッツへ。
静かに、と言えば一声も上げない少年は隠密の同行者に相応しく、車を降りて
からもギルベルトはすんなり無人地帯の砂地間際まで辿り着いた。車は大分
前に乗り捨てていた。タイヤの跡はきっと感覚の短い巡回にすぐに見つかって
しまうだろう。足跡も同じだ。
警備の厳しい夜中ではなく、世界が赤く染まる時間帯を選んで何一つ荷物を持
たない少年を砂地と芝生の境に立たせる。国境まで500メートル。
「いいか、俺がGoと言ったら走れ。まっすぐ、一直線だ」
ちらりと視線を流すと出来損ないの自動発射装置が見える。BT11もそう遠くな
い距離にあるが、上を見ればキリがない。ギルベルトは左手で特別改造したマ
カロフを抜いて一度ぐっと握り締めた。手に馴染む程使い込んでいないこれは
あまり気に入らない。弟は今でもあの世界に名立たる名器に連なるものを使っ
ている。それはとても喜ばしいことに思えた。
「500メートル先に鉄線がある。それだけだ、それだけしかない。何が何でも
越えろ。指が切れて血が流れても足が痛くても動け、止まるな」
ここまできてもまだギルベルトはドイツ語を使い続けた。少年は全てを理解し
てはいないだろうが、この状況でなら何を言われているのかは明らかで、緊張
に強張らせた面持ちでこくりと頷いた。
それを見て、ギルベルトも完全に吹っ切れた。何の意思表示もしてこなかった
が、やはりこのカーテンの向こうへ抜け出したかったのだと思った途端、自己
満足でしかない筈のこの行為に大義名分がついた気がした。勘違いの大儀を掲
げるのは得意中の得意だ。
グリップの丸みが足りないせいで親指が安定しない銃だ、ウチならもっと上手
く造るのにと悪態を内心でつきながら、それでも握りを確かめた。
ギルベルトはスタートラインに立たせるように平らな砂地の縁に少年を導き、
その背に軽く右手を添えてもう片方の手でまっすぐ前を示した。
高さ3メートル弱の絡まる鉄線。その向こうの深い森。それがゴール。
息を吸って、吐く。
大きくもう一度吸って、叫ぶ。
「Go!」
びくっと肩を震わせた少年の背中を思い切り押し出す。
「行け、走れ!Go!」
同時に片膝を立てて構えた銃をガシャン、と内部で音を上げて反応した自動小
銃に合わせた。軽く肘を曲げた右腕に右頬を預け狙いを定める。
口の中で、カウントする。アインス、ツヴァイ……。
ドライを唱える前にぐっと引鉄に力を込めた。ガゥッと余韻を引かない音が消
える前に続けて連射する。同じ射線に連続で3発、それで狙った通り忌々しい
木偶の坊の台座と支柱を繋ぐクランプを打ち抜いた。
少年は最初の1発目が放たれた時こそ驚き足を止めて振り返ったが、ギルベル
トは少年の方を見向きもしなかったので、ぎゅっと口を引き結ぶと、また走り
だした。均された土にくっきりと足跡を残しながら。
続く銃声には振り返らない。真っ直ぐ、西まで一直線に。
ギルベルトはすぐさま立ち上がり数歩ばかり移動して、同じように片膝をつい
た姿勢で再び銃を構えた。一つクランプを失ったくらいでは角度の調整が利か
なくなっても再起不能にはならないし、倒壊させることもできない。同じ直線
上の錆びつき出している金属部に狙いを定め、1発。
キンッ!と甲高い音がして、僅かに外れた。シャイセと呟いてもう一度引鉄を
引いた瞬間、等間隔に取り付けられているサーチライトが照らされた。
「は、そりゃそーだ」
遅いくらいだと吐き捨てながら、残り3発を叩き込んで、脱着の運用性が悪い
銃のカートリッジをそれでも出来る限り手早く取り替えた。
少年の走る方をみやればまだ国境まで辿り着いていないが、それでも確かな足
取りで駆けていく。カーテンの向こうへ、壁の向こうへ、西へ。
そうだ西へ。
行きたいのなら行けばいい。
その先が夢見た光溢れる楽園とは限らない。
それでも行きたいというなら行けばいいのだ。
足が、言葉が、文字がある限り人を囲うことなど出来ないのだから。
国境の向こうであの少年が何を見るのか何を見つけるのか、知る由もない。
だから、ただこれだけ。
「The die is cast, so good luck!」
<Go West!>